第8話 「壁」





「ふぅー……さて、はじめるか」



 帰宅した俺は独り言をつぶやきながら、鞄から手渡された画材を机の上に並べてみる。

 その中で、直近に使う道具以外を端に寄せ、俺はインクのボトルを開け放つ。

 本屋で感じる独特の臭気に包まれながら、ひとまずネームとは関係なしに原稿用紙とGペンを取り出して一本線を引いてみる。



「! なるほど……これは厄介だ」



 その一筆で、このペンがいかに難しいのかを察する。

 筆よりは力を入れなければ線が出ないというのに、些細な圧の変化で容易く線は揺らいでしまう。



「ふむ……」



 次に丸ペンを取り出してインクを付ける。同じように線を引いてみる。



「こっちの方が描きやすいけれど……表現の幅は狭まる、と」



 Gペンに比べ、そもそもの線が細い。

 そのため一定に描きやすいが、一筆で出せる勢いに限りが生まれる。

 扱いやすくはあるが、慣れたとしたらGペンの方が圧倒的に早く、そして上手く絵を見せられる。


 そうなれば、Gペンの方を使うべきだが……持ち替えて、今度は丸い図形を書いてみる。

 線はガタガタで、力を入れすぎると線は二股に割れてしまう。日本画で使う筆に比べ、インクに筆を落とす回数も増える。



「これは、時間がかかるな……」



 これまでのノウハウが通用しない相手に、俺は深く息を吐く。

 すると、クラッと……平衡感覚を失った。



「……っと」



 机に手をついて、目を閉じる。

 立ち眩みに近い感覚が、座ったままの俺から過ぎ去るのをじっと待つ。


 貧血だろうか。そういえば、昼休みの間はずっと寝ていたから、昼食をとってない。

 それを自覚すると同時に空腹感が唐突に訪れる。


 しかし、飯を食う時間も惜しい。あと1週間しか、期限は無いのだ。

 そう考えて再度ペンを手に持つと……扉にノック音が響く。



『結糸』



 母さんだ。

 あれ以降、あまりやり取りを交わしていない。当然だが気まずい思いをしている俺は、なんて返事をすればいいのかわからなかった。



『ご飯、置いておくね』



 カチャカチャ、と食器が置かれる音が聞こえる。

 そして母さんは階段を下りて行った。



「……」



 俺は立ち上がり、眩暈がしないのを確認して扉を開けに行く。

 そこにはブリの照り焼きに味噌汁、ご飯にきんぴらごぼう……和食が四角いお盆に乗せられていた。


 ……母さんは、許してくれるということだろうか。

 無理に、食卓に並ぶ必要は無いと……まるでそう言ってくれているような気がして、俺は申し訳ないような、ありがたいような……何とも言えない感情が芽生える。



「頑張れ、頑張れよ……俺」



 これだけ甘えさせてもらった以上、退路はない。

 俺は盆に乗った夕飯を自室に持ち込んで手を付ける。

 味噌汁の熱が食道を通って胃に落ちるのがわかる。味が鮮明に脳に刻み込まれるのを感じ、改めて腹が減っていたことを自覚した。



「……飯は、食わないと駄目だな」



 当たり前のことを独り言ち、魚の皮と共に白米をかき込む。

 3日ぶりに食べた母さんの料理を嚥下しながら、俺はなぜか、目の奥がジン、となった。









 それから……14時間後。



「くぁ……」



 今日は土曜日。休日だ。

 大きな欠伸をし、スマホのスリープ画面に表示された時刻を見て、3時間ぶりに椅子から立ち上がる。


 そして先程から違う立ち位置から原稿用紙を眺めるが……進捗はあまりよろしいとは言えないことを再確認し、あくびで肺に吸い込んだ分を今度は溜息に変換して外に出す。



「…………」



 線画だけが描かれた3ページ分の……ようやくできた原稿に、俺は頭を抱えそうになる。


 どうしたことか、筆が全く進まない。


 頑張ると決意したばかりなのに、下書きを写してみたはいいが……Gペンを進めることがどうにもできない。



「くそ…………っ、なんでなんだ……」



 俺はちら、と部屋の片隅に押し付けている描きかけの日本画を見た。


 進まない原稿用紙とあの絵が重なる。


 途中までは描けても、ある地点から一切、『ノらなく』なる。

 はじめは理解したと描き始めたはずなのに、途中から何を描いていいのかわからなくなって、次第にやる気もなくなる。

 それでもと無理矢理に筆を進めていくと、完成するのはしょうもない絵だ。


 ……これまでは、日本画に対する俺の情熱の無さがそうさせていたのだと考えていたが……どうやら、俺自身の問題ってことらしい。


 浮き彫りになった自分の汚点を持て余し、気分が悪くなっていると……いきなりスマホのバイブレーションが発動する。



「……?」



 画面を見ると、登録してあった真帆の名前が表示されていた。

 緑の方向にテレフォンマークをスワイプし、顔の横に近付ける。



「どうした、橘」



 少なくとも週明けまで会話することもないと思っていた彼女の、突然の通話に俺は訝し気な声を出してしまう。



『あ、林原くんってさ、部屋綺麗?』


「……まあ、物はなるべく置かないようにしているけど」



 まったく脈絡のない会話の切り口に、俺は大人しく答えてみる。彼女のパワフルさには抵抗しても意味がないということに気付いたからだ。



『そっか、今から行っていい?』


「は?」



 ……その諦めすらも超えてくる言葉に、俺は目が覚めた。



「いや、君……病院は?」


『抜け出したよー』


「はぁ!?」



 反射的に大声を出してしまった俺に、彼女は電話越しに『あは』と笑い声を出す。



『っていうのは冗談で、今朝退院したんだ。ちょっと運動がてら散歩でもしたいなって思ったんだけど、目的地があった方が楽しいかなーとか』



 いきなり覚醒した頭はそれこそ立ち眩みのようにうまく働かない。

 ちょうど、これからどうすればいいか悩んでいたところでもある。



「……もてなしも何もできなくていいなら」


『ありがとー! じゃ、場所教えて!』



 場所を伝え、一応とメッセージに座標を書き込んだのち、椅子にもたれて天井を見つめる。


 数秒そうして落ち着いた後、部屋をぐるりと見渡す。

 見られて困るものは置いていない。

 しかしそれより、来客があるということを親に……最低でも母に伝えなければならない。



「……言わなきゃな」



 重い腰を上げる。

 ああ、面倒だというのに、机へ向かうより気が楽だと思ってしまうのは何故だろう。









「母さん」



 キッチンに顔を出すと、食器を洗っている母さんがいた。

 俺が現れたことに驚いている様子の母さんを尻目に、友禅がいないことを確認する。


 昨日のドアの音から察して、夜中に帰ってきたであろう奴は、酒でも飲んできたのだろう。未だに起きてはいないようだ。

 ならば幾分やりやすい。俺は母さんに話しかけるのを続行する。



「友達が家に来たいって言っているんだけど、良いかな」



 頼みを聞いた母さんは、さっきの驚きよりもさらに目を見開き、信じられないという表情をする。



「結糸の、友達……?」



 ……いや、たしかにこれまでそんなイベント、この家に持ち込んだことはないが。

 そこまで驚かれると俺という人間がいかに惨めな半生を過ごしてきたのかということを直に叩きつけられるようで、無性に居心地が悪い。



「漫画の、原作やってくれてるやつ」



 その言葉に、母さんはようやく納得したようで、ようやく少しだけ破顔した。



「……うん、いいよ」



 ……こんな表情の母さんを、初めて見た気がする。

 なんだか妙な気恥しさを感じ、俺は家を出て真帆が到着するのを待つことにした。



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