第7話 「変な人」
そして翌日。
俺は昨日と同じ病室に、同じような時間に来ていた。
「と、そんなわけでネームは大抵完成したわけだけど」
「わーお疲れさまー」
病床でぱちぱちと拍手をする橘に、俺はエナジードリンクを片手に小さく息を吐く。
昨日、手渡された分のネームに絵を描き続けていた俺は、多分かなり深いクマを携えているだろう。
授業の時間を睡眠に費やしたことで今はそれなりに元気だが……何かに熱量をかけてやるということを今までやったことのない俺は、徹夜で何かをするという行為にそれなりの疲労を感じていた。
「でも、ここからが時間かかるんだよねぇ。多分」
彼女はそんな俺のネームを検めながらそう呟く。
なにせ、これまで作ってきたのはあくまで下書きに過ぎない。
これから実際に漫画用のペンを使い、背景を描き込み……実際の作業で言えば、最も時間がかかるのはここなのだろう。
「まあ、その為の俺なんだろ。頑張るよ」
彼女に絵を描く能力が無いのは仕方がない。
ここから先は俺が頑張って作業を引っ張っていかなければいけない。
あと2ヶ月……ネーム分、31ページ。単純計算で行けば2日に1ページだがそう甘いことも言っていられまい。
「そうだ。聞いていいかわからないから聞くけど、体調は大丈夫なのか?」
「……林原くんも大概、変な人だよね」
「心外だな」
こっちは心配して顰蹙を買うかもしれないがハッキリさせる方を優先して尋ねたというのに……と納得はいかなかったが、橘は優しい笑顔を浮かべて俺に小さく頷いてきた。
「あの日はちょっと寝不足で調子乗りすぎちゃっただけなんだ。それで最近は色々あったから、検査もかねての入院だったんだ。心配するようなことは――――」
「いえ、心配することはあります」
ピン、と……空気が張り詰めるのを感じる。
その声は、俺が背を向けていた病室の入り口から響いていた。
橘はその声を聞くと先程までの表情を一瞬強張らせたように見えた。
俺も首を回して入口へと振り向くと、そこには目の吊り上がったスーツを着こなす女性が立っていた。
「マ……お母さん」
橘の言葉で、そこに立つ女性が何者であるかという情報が全て明白になった。
俺は立ち上がり、手に持った缶を座っていた椅子に置くと……軽く会釈をする。
「は、林原結糸です。娘さんには、お世話になってます……」
妙に堅苦しい言葉が口をついて出るが、それは橘の母が醸し出す雰囲気に呑まれてのことだった。
あの柔らかい印象を受けた橘の父とは正反対の……言ってしまえば堅物的な出で立ちに、咄嗟に出る言葉が固くなってしまった。
「あなたが真帆の漫画に付き合ってくれている子ですね」
紙袋を片手に携えていた橘母は、こつ、こつと靴音を鳴らしながらこちらへ……というか娘、真帆へ近付いて来る。
近付くと彼女からは香水の匂いが漂う。近くで見ると、スーツも相当に生地がいい。所作のひとつをとっても「仕事してます感」が痛烈に伝わってくる。
「わざわざお見舞いに来てくれてありがとう。けれども、もう娘に付き合ってもらう必要もありませんよ」
「え?」
こちらを流し目で見る橘母はそう言い切ると、それ以上の言葉を紡がない。
「あの、俺……ぼくは、無理に付き合っているわけでは」
「わからない子ですね」
吐息を交えながら、橘母は呆れたような表情をしながら冷たい視線をこちらに送った。
「娘に無理をさせたくないのです。わかりませんか?」
そして、俺はその言葉に喉を詰まらせた。
何の言い訳もできない、ド正論。橘自身が「大丈夫」と言っていたことに甘えていた俺に、その端的な言葉は深く深く突き刺さった。
そして橘母は紙袋から本を5冊ほど取り出して真帆の枕元に置いた。それは、俺が全く知らないタイトルの漫画だった。
「漫画なんて、読むので満足しておきなさい。体調を崩してまで作業をするなんて、馬鹿げている」
その言葉は、俺にではなく真帆に向けられている。
もう、俺が口を挟める状況ではなくなってしまったが……真帆はなにかを言いたげに口を開こうとする。
しかし、それを阻むように橘母のポケットからバイブレーションが響く。
「失礼」
また靴音を鳴らしながら病室の外に出て行った橘母は、通話を開始した。
数分間、真帆と俺の間に沈黙が流れる。
俺は結局一度立った状態をどうすることもできず、ただ立ち尽くしたまま、橘母が戻ってくるまでの間をろくに頭を働かせることもできずに待っていた。
そして再度橘母が顔を出すと、今度は寝台に近寄ることもなくその場で発言をした。
「じゃあ、仕事があるので失礼するわ。真帆、来週末は休み取れるから。行きたい所があったら考えておきなさい」
「……うん、心配かけてごめんね、ママ」
笑った真帆の顔を見て、橘母は退室する。
廊下越しに靴音が遠ざかって、聞こえなくなったと同時に俺は缶を手に取って椅子にへたり込んだ。
「……っは、ふぅ……」
「あは。緊張しすぎだよ、林原くん」
心からおかしそうに、真帆は朗らかに笑う。
お前だって、妙な緊張感を発していただろう……というのは置いておくとして、橘母には友禅とは違うタイプの苦手意識をひしひしと感じた。
「なんか……強い人だね」
「うちのお母さん、外資系の役員らしいから」
なんとも見た目通りな肩書だ。
論理的で物怖じせずにズバズバ発言するのは、ある意味真帆の持つ性格とよく似ている。
しかし、困ったことになった。
ああ言われてしまった以上、表立って漫画作業を行うことははばかれるようになってしまったが……。
「ね、林原くん。来週までに……原稿完成させたいんだけど」
「は?」
一切、やめるつもりもなさそうな……そして、これまでの予定を一撃で狂わせるような彼女の言葉に、俺は間抜けな声をあげてしまった。
真帆はスマホを操作すると俺の方へ画面を向ける。
「これ、見て」
俺は眉を顰めながらその画面を眺めると、そこには出版社のホームページ、その一部が表示されていた。
「『出張編集社』……? なにこれ」
そこにはあまり耳馴染みのない単語が煌びやかに飾り立てられてあった。
その開催日時は、たしかに来週末で、場所も二駅ほど離れた程度の場所だ。そう遠くない。これまでに完成させたいということなのだろうが……そもそも、これは何なのだろうか。
「漫画家になる方法ってメジャーなのが2つあるんだ」
俺の抱いた疑問に対する答えを、真帆は順序だてて解説し始める。
「1つは昨日やろうって決めた賞の応募。そして2つ目は持ち込み。持ち込みっていうのは、出版社に原稿持って行って、編集者さんに見せて評価してもらうっていう作業のことなんだ」
直に持っていく……そう聞くと、随分自己主張の激しい行為のように聞こえる。
漫画家のような競争の激しい職種ならば、そう言った行動力も必要なのだろうか。
「上手く行けば、賞とか一段飛ばしで本紙掲載までいけるっていう便利なやり方なんだ。それで、たまーに持ち込みを専門学校とかで編集者を呼び込んで持ち込みしていいですよーみたいなのがあるんだ」
なるほど。その近々のいいタイミングが、来週末……なんとも、急な話だ。
「プロ中のプロの人にアドバイスを直々に貰える絶好の機会だから、上手くいかなくても見せに行こう? 最悪、ネームの状態でも大丈夫らしいから!」
応募要項に目を落としてみると、たしかに『学生はネームでのエントリー可!』と書かれている。
それであればここにあるA4の紙でも、十分ではあるが……俺はネームに描かれている俺の絵を見て、少し思案する。
以前、真帆の言っていた『漫画になっていない』という指摘。
その評価に対する明確な改善方法が、未だに俺も……真帆もわかっていない。
ネームの質が改善されていれば、恐らく真帆の性格では『良くなってる!』とでも言いそうなものだ。言ってきていないということは、良くなっていないのだろう。
そうなればたしかに第三者の、見る目がたしかである存在に指導してもらうというのは効率的な方法といえる。
「ああ、そうだな」
俺の同意を見ると、パッと表情を明るくした橘は、ベッドの近くのテーブルに置いてあった鞄に手を伸ばした。
「よし! じゃあ、これ!」
「え?」
その中から彼女は原稿用紙、ペンの柄にペン先各種、インク、よくわからない規則的に大量の点が並んだシール数十枚……そしてこれまで作り上げてきたネーム全てを俺の手に持たせた。
「頑張って!」
ずし、と重さを感じる荷物越しに、俺は彼女の顔を見る。
「……頑張るけどさ。君に変って言われたの、やっぱ納得いかないよ」
「えへ」
真帆は笑みを浮かべ、少し顔を傾けてみせる。
「お母さんのことは気にしないで。なにより、これからの作業はほとんど林原くんがやるわけだから、そもそも疲れることないし!」
彼女は、心配させまいと胸を張りながらそう言った。
俺は真帆の病状がどうなっているのか、詳しくは知らない。
――――彼女のことを考えてやるのなら、本当はもう関わってやらない方が良いんじゃないか。俺という、彼女の漫画を完成に導く存在は、彼女の健康を害してしまうのではないか。
……けれど、俺だってもう引き下がることはできない。
母さんに啖呵を切った以上、やっぱりやめますと言えば……それは、俺の人生がこの先どうなるか、決定してしまうような、そんな気がする。
どんな後付けの理由を並べようが、彼女と共に漫画を作るということは、彼女の病気を悪化させてしまうかもしれない。
俺は、その覚悟を持たなければならない。
深呼吸をし、真帆を見る。
真帆も馬鹿じゃない。俺がなにを懸念しているのかはわかっているのだろう。笑顔を浮かべながらも、その表情はどこか不安気に映る。
だから俺も、口角を上げてみた。
「さっきから気になってたけど、お母さんじゃなくて、ママって呼べば?」
「……もう!」
彼女は顔を少し赤らめ、辱めを受けたと言わんばかりの表情をする。
どうやら、不安は払拭できたようだった。
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