第5話 「無知、罪、後悔」




「なるほどねぇ」



 久し振りに聞いた彼女の言葉に、俺は息を吐く。

 友禅に対する不満や、聞こえてくる陰口……俺の愚痴を黙って聞いていた彼女は、深々と頷きながら難しい顔をしている。



「つまらない話だろ」



 自虐的にそういう俺は、つい勢いで長々とした自分語りに恥を感じる。



「林原友禅ってそういう側面もあるんだね。テレビだと寡黙な天才、みたいな映し方しかしてないのに」



 しかし彼女はわりとゴシップが好きなようで、思いの外楽しそうにそう言っている。



「……テレビに映るのはあくまで一面に過ぎないってことだな。しかも、都合のいいように編集もされているわけだし」


「そんなものかぁ」



 ネット社会となった今でも、虚像の位置が変わっただけで本当のことがわかることなど、テレビしかなかった頃とそんなに変わらない。


 額面通りにしか情報を受け取れない面々はあまりにも多く、その被害に遭っている俺からすれば、もう辟易としているのだが……まあ、そもそも何かを表現するということは逆に何かを隠すということと同義だ。


 花見の時、桜の花ばかり見て下に落ちているゴミを見ないように。

 山の絵を描く時、わざわざ山に刺さった電柱の映らない角度を模索するように。

 漫画で勧善懲悪を描く時、必要以上に悪役を掘り下げないように。


 すべての表現者は、自分の描きたいもののために何かを犠牲にする。

 それは仕方のないことではある。主張は他のものを押しやって貫くことだ。


 しかし、押しやられる側からすれば知ったことじゃないし、たまったもんじゃない。

 それがわかっているから、俺は友禅が嫌いだし、友禅を取り上げる番組を作る連中は嫌いだし、絵を描くことが嫌な部分がある。


 しかし、その俺も今こうやって、彼女が作り上げる漫画の片棒を担いでいる。

 言い訳のしようもないダブルスタンダードに、自嘲を込めた笑いが込み上げる。



「そんなもんだよ……と、はい。とりあえず描き終わったよ」


「おお、さすが仕事速い」



 とりあえず彼女が作り上げたネームに俺の絵を重ねて描くという作業が1ページ終わった。

 手探りの状態だが、絵を落とし込むだけの作業にそう時間はかからない。話をしながらでもそれなりに見える程度には描けただろう。


 しかし、ネームを眺める橘の表情は一切動かない。

 それどころか、少しだけ首を傾げ始めた。



「…………ふむ」



 なんとも言えない声をあげる。

 どう見ても、彼女は納得していない。



「なんかまずかったか?」



 出された指示通りに、いい絵を描いたつもりだった俺は冷や水を浴びせられたような気分になって彼女に問い掛ける。



「いや、すっごい上手だし文句ないんだけど……なんだろ」



 うーんと唸り声をあげながら紙を眺め続ける彼女は、眉間に皺を寄せ難しい顔をしている。

 そもそも漫画に詳しくない俺からしてみれば、なにが問題なのかわからない。彼女の言葉を待っていると、数秒後にようやく口が開かれる。



「漫画になっていない……というか」


「……なんだそれ」


「……なんだろう。なんでこう思うのか言語化はできないけど…………」



 彼女が持っている紙を再度受け取り、俺も改めて見返す。

 主人公が家族と共に船から島に降りたつまでのページだ。


 彼女が作った枠内に綺麗に収まった絵。導入の台詞の流れもわかるし、何が問題なのか俺にはさっぱりわからない。



「そのGペンとか、ちゃんと清書してないからそう思うだけじゃないのか?」



 絵でもそうだが、下書きの時点でパッとしなくても、筆を入れていくうちに方向性がハッキリと定まって予想以上の出来になることもある。逆もまた然りだが。

 言語化できない不安感を抱いたままよりも、とりあえず完成させるように手を動かして、その後に振り返って何が駄目だったかを考えなければ、成長もなにもない。



「うーん……そうだね。やってみよう」



 納得しきっていない様子の橘だが、不承不承頷いてネームを机に置いた。



「そっちのネームも渡してくれ。夕飯までに、どうにか形にしてみよう」


「……! うん、頑張ろう」



 俺がやる気な姿勢を見せると、橘は嬉しそうに笑顔を浮かべながら俺にコピー用紙を渡す。


 それを見て、俺は少し心が痛む。

 正直、漫画に対するモチベーションもあることは事実だが……純粋にそれだけではなく、俺は家に帰りたくなかった。


 そんな不純な俺に、真っすぐな笑顔を向けてほしくなかった。









 それからは、しばらく無言の時間が続いた。

 互いにペンを動かし、この空間にはカリカリという音だけが響いていたが、俺はふと手を止めた。



「……橘、ここってどうなっているんだ?」



 ネームの一部に、小さなコマで何かが描かれているが、下手過ぎてソレが何なのかわからなかった。

 紙を眺めながら問いかけるが、彼女からの返事はない。


 というか、さっきまで彼女の方から聞こえていたペンの音すらなくなっていることに、俺は今気が付いた。



「橘?」



 視線を彼女の方にやると、彼女は机に突っ伏していた。

 ペンを握ったまま、目を瞑っている。


 ……寝ていやがる。



「……図太いな、まったく……おい、橘!」



 たしかに、家に到着してからまあまあの時間が経っている。気が付けば窓の外も赤から黒へと変わろうとしている頃合いだ。


 今日のところは終わりにすべきか……と考えるが、何の断りもなく帰ってしまうのも気が引ける。



「帰るに帰れないだろ……ん?」



 何度か声を掛けても全く起きる様子のない彼女を見ると、俺は違和感に気が付く。


 彼女の表情には眉間に皺が寄っている。


 それどころか何か汗をかき、呼吸は浅く激しかった。



「……おい、橘! どうした!」



 ただ寝ている様子ではない。悪夢にうなされているわけでもなさそうだ。

 彼女の肩を軽く叩くが、彼女は小さく「ぅ、ぅ……」と漏らすばかりだ。



「――――橘のお父さん!!」



 なにか、良くないことが彼女に起きている気がする。


 そう思った俺は、下の階にいる橘の父をすぐに呼びに行った。









「真帆……うちの娘は、小さい頃から腎臓が悪くてね」



 橘邸のリビングで、救急車を待つ間……俺は橘父から彼女の真実を聞かされていた。


 真帆の状態を知らされた彼は、俺の想像の何倍も冷静に、救急へ連絡を取り、彼女をリビングのソファへと運んで寝かせると、俺へ温かい茶を差し出して説明してくれた。


 そのあまりに手慣れた行動に、この家では何度もこのような事態があったのだということを思い知らされ、愕然とする。

 この家ではこういったことは日常で、当然のことだが……俺は、彼女のことを何も知らなかったのだと。



「ここ1年くらいは調子良かったから、学校にもちゃんと行くようになってたけれど……いつこうなってもおかしくないって話だったんだ」



 語られる彼女の内情に、俺は内臓を強く握りしめられたような感覚に陥る。

 俺が、無理をさせたことがきっかけで……俺が漫画を付き合うということをきっかけに、彼女がずっと持っていた爆弾に火を点けてしまったのだろうか。


 今日彼女が倒れたのは、俺のせいだ。


 そんな俺が、どうして彼女の父親の前で温かい茶などしばけるだろうか。

 俯き黙っていると、橘父は俺の方に茶菓子を差し出してくる。



「気に病むことはないよ。真帆がやりたいことを君に付き合ってもらっていただけなんでしょ? むしろ、君がいてくれなかったら、気付くのが遅れてもっと大変なことになっていたかも」



 少し顔を上げると、優しく微笑みかける顔がそこにはあった。

 その顔が、俺の罪悪感をより増幅させる。


「…………すいません……」



 俺は再度俯く。


 俺は、自分のことばかりで……橘のことに全く気が回っていなかった。

 俺が抱えている問題よりも、もっと根源的で、もっと辛いであろう悩みを抱える彼女に……甘えていたという事実が、俺の心をグサグサと突き刺す。


 父が嫌いだから、何だというのだ。

 周りの目が嫌だから、何だというのだ。


 それを彼女は黙って聞いてくれた。

 俺は、ああ、俺は、何て愚かなんだ。


 そう考えていると、救急車のサイレンがリビング内に聞こえてくる。もうじきに到着だ。



「今日は帰って、また今度、遊びにおいで」



 橘父に促され、俺は帰路についた。

 救急隊員とすれ違うようにして家を出た俺は荷物と共に彼女が完成させた分のネームを持っていた。



「…………」



 眺めながら、自宅に向けて歩き出す。

 結局、彼女の下手な絵が何を描いているのか、俺にはわからないまま……完全に陽が落ち、街灯に照らされる夜道を、歩いた。









「よぉ。今日は帰りが遅かったな、結糸」



 帰宅すると、待ち構えていたように友禅がリビングから出てきていた。

 俺は黙ったまま、自室へ行こうとする。



「おい、逃げんなよ」



 挑発するような言葉を友禅は言ってくる。

 普段は反骨心から反応してしまうだろうと思いながら、今日はそんな気分じゃなかった。


 無視して階段に足を掛けると、気色ばんだ友禅の声が聞こえてくる。



「結糸!!」



 うるさい。こちとらそれどころじゃない。

 わざわざ言うのも面倒臭くて、自室の鍵を閉めて椅子に座る。



「…………」



 鞄からネームを取り出し、眺める。

 彼女は無理をしていたのだろうか。

 半ば倒れるようにしていたのだから、そうなのだろう。


 それをさせたのは間違いなく俺で、俺がやる気を見せていなかったら、彼女は今日も健康にご飯を食べて眠れていたのではないだろうか。



「……ちゃんと、謝らないと」



 明日。彼女の家か、病院か……見舞い品でも持って、行こう。

 このネームも、出来るところはちゃんとやろう。

 そうでなければ、彼女が倒れてしまうほどやったことが、無意味になってしまう。


 俺は鉛筆を取り出し、紙に向かう。


 母の呼ぶ声が聞こえるが、無視をする。

 母さんを通して友禅のご機嫌取りをする……そんなことをしている場合だとは、到底思えなかった。





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