第3話  「知らない道」



 結局、俺は彼女について普段歩かない通学路を歩いている。まあ、あの流れで断るのも変な話だ。仕方がない。


 家の方向は同じだったが、彼女の住む家は通りを挟んで向かい側の方面で、長い間住んでいるこの街だがあまり歩いたことのない場所だ。

 元来、不必要と感じてしまったものを拒んでしまう性質があるので、生まれてからこの街に居続けているものの自分が普段通る道以外、俺は知らない。何かの拍子に通ったとしても、覚えない。


 まったく覚えのない道を、彼女の後ろをついて歩くと、住宅街の角にある家に到着した。

 ここが彼女の家か……と考えていると、一切躊躇もなく――――いや、自宅だから躊躇することなど無いだろうが――――簡単に扉を開けてみせた。



「お、真帆……お友達?」



 そして奥からエプロンを付けた橘の父らしき男性がこちらに顔をひょっこりと出した。

 顔の雰囲気がどことなく橘に似ている。娘は父親に似るというが、あながちただの風説でもないのだろうか。



「友達というか……仕事仲間?」


「仕事ではないだろ…………まだ」



 橘の楽し気な紹介にさすがにツッコミを入れると、橘父は砕けた笑いを浮かべて俺に小さく頷いてみせた。



「林原結糸です。真帆さんの漫画の作画に勧誘されて……すいません、突然」


「ああ、見つかったんだ。よかったね真帆。いらっしゃい、林原くん」



 なんとも優しい人だ。

 喋り口調は真帆に似ているが、その性質はかなり違う。意地が悪いのは母親の方なのだろうか……いや、これは失礼だな、やめよう。



「ごゆっくり。何かあったらよんでね」



 そう言うと橘父は奥の部屋へ引っ込んでいった。



「……優しいお父さんだね」



 つい、その感想が口をついて出る。

 『父』という概念は、俺にとってはいつも厄介なものでしかないが……彼女の持つ『父』を非常に羨ましく思ってしまった。

 俺のその言葉に、靴を脱ぎながら橘は微笑みを浮かべている。



「うん、そうだね」



 また、これまでとは違う意味を孕んでいるようなその微笑みは、これまで見たどれよりも柔らかかった。









「これ、は……」



 彼女の部屋へやってきた俺は、その内装に少しばかり驚いた。

 壁一面に大きな本棚があり、見てみると全部が漫画だ。それに彼女の机には見たことのない形のペンや原稿用紙……思った以上に漫画に染まった部屋だった。



「えへ、いいでしょ。準備は万端だよ!」



 そう言いながら彼女は机に備え付けられた引き出しを漁り出した。早速設定資料を探しているのだろう。

 ……勝手に座るのも憚られると思った俺は、つい机に乱雑に置かれたペンを手に取る。新品ではなく少し使われた様子のそれは、あまり俺の知っているペンの形ではなかった。



「これがGペンってやつ?」



 普段筆以外を使っていない俺は画材に興味を持ってしまう。

 どれだけ漫画を知らない俺でも、漫画のペンの名前くらいは知っている。


 しかし資料を漁り続ける橘は、ノールックのままに口を開く。



「それは丸ペンだね。Gペンはそっち」



 見ていないのにそう言った橘は、机のペン差しを指差している。

 そのペンを見てみると、丸ペンと言われた今持っているペン先と似たような形をしたペンがあった。



「へえ、何が違うんだ?」


「Gペンの方が太いんだ。強弱がつけやすいの」



 説明を聞きながら今後使うことになるペンを観察していると、橘は屈んでいた状態から体をあげた。



「あった、これだ」



 橘は十数枚の紙を挟んだファイルを取り出して俺に手渡した。

 その表情はこれまでにない程微妙なものだ。プロットの時はあんなに自信満々だったのに、どうしたのだろうか……と思ったが、その理由は渡された資料に描かれた主人公のビジュアルイメージを見て一発で理解する。



「……下手だな。シンプルに」


「ぐえ」



 あまりにガタガタな線にのっぺりとした顔面、おかしな骨格に質感も糞もない髪の毛。シンプルに下手だ。



「服のセンスも……00年代って感じだ」



 別に、どこが悪いとかではなく、センスが古い。

 髪型のイメージも、描きたいもの自体は理解ができるが、そもそも描きたいものがイマドキではない。



「好きなのがそこら辺の漫画だからしょうがないじゃん!」



 辛い評に顔を赤くしてそう叫ぶ橘に、俺は「はっ」と笑いを零した。

 橘はむくれてみせるが、数秒も経たずに表情を元に戻した。



「林原くんが笑ってるの、初めて見たかも」



 その言葉に、俺ははっとする。


 言われてみれば笑ったのも久々だ。コンテストに出す絵を描き始めてから現在にかけて、バラエティ番組を見ても配信や動画を見ても笑う余裕などなかった。



「人が劣っているのを見て笑うなんて、性格悪いね」



 橘はぐさ、と刺さる言葉を吐く。

 これまでとは違い、毒をオブラートに包む様子もない。しかし、人の失敗ばかりを嗤う奴だと思われたくはない。



「君だから笑ったんだ」



 橘という突如として現れたよくわからない存在のこういう側面……弱みのようなものを知れて、なんというか……俺はほっとした。

 彼女はどうにも俺の価値観の外からやってきたような、そんな感覚がずっとあったが、彼女のこの下手くそな絵は、俺の中の『橘真帆』像に輪郭を付けた。


 ただのよくわからない女じゃない。それに対して笑みが零れたのだ。


 と自分の中で理論を反芻していると、橘は少し驚いたような間抜けな顔をして、また少し頬を紅潮させていた。

 俺は設定資料をパラパラと眺めながら、少し考え、口を開く。



「……とりあえず、今日はこれ持ち帰っていいかな」


「え」



 意外そうに……そして少し嫌そうに、橘は俺の発言へ間抜けな声を出す。



「ビジュアルをブラッシュアップしてからじゃないと、ネーム描くにもイメージがわかないから」


「すいませんね、イメージ湧かなくて!」


「ふっ」



 無論、それだけではない。

 この設定資料をちゃんと読みこんだ上でネームの作業に取り掛かりたい。そう思ったのだ。



「ああ、もしかしたら質問とかあるかもしれないから、連絡先いいかな」



 俺はスマートフォンを取り出すと、橘も漫画のステッカーが貼られたものを取り出す。



「巧妙な手口で聞き出すねぇ、慣れてますなこれは」


「……面倒臭いな君」


「あは」



 そう言ってQRコードを読み取った俺は橘の部屋を後にした。

 橘父にも挨拶をすると、ものすごく意外そうに目を見開きながら「またいつでも来てね」と言われる。


 たしかにかなり短い滞在時間だったが……なにか勘違いされているような気がしてならない。

 でもまあ、漫画を描くんだ。それなりに長い間の付き合いになる。勘違いならいずれなくなるだろう。


 俺は橘家を出て、通りを眺める。

 さっきまで知らなかったこの道……学校と、自分の家と、最寄りのコンビニと。そのルートは覚えておかなければ。そう思った。



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