第9話 力を持つもの
「まあ要するに世界っていうのは、多構造になっててね。あたしたちが認識しているのはほんの一部なわけよ。あ、多構造っていうのはつまり、同じ空間にたくさんの層があるって感じで、例えば何か、そうね。この目の前の景色の手前に透明のガラスがあって、その手前と向こう側ではちょっと見え方が違うっていうのかしら。手前からは向こうにいるひとの姿が見えてるけど、向こうからは手前のひとは見えないみたいな……うーん、難しいわね」
度々行く手を阻む靄のようなものを適当に手で払いながら、グルナはルフスにもわかるように言葉を選んで説明してくれる。
彼女があまりにも容易く撃退していくせいか、恐ろしさを感じない。それか今のところ自身に脅威がないためかもしれない。
「ええと、今いる空間は手前側ってことで合ってます?」
「あ、そうそう。で、まあ言うなれば手前は妖と呼ばれるこいつらが存在する層でね。力の弱いやつなんかは普通なら、別の層に干渉することは叶わないんだけど。それがどうも最近はそうでもないみたいでね」
「そうなんですか?」
「ほら、最近なんか変なことがよく起きてるって聞くじゃない。あれって、つまりはこういうことなのよ」
リュナのあの祭りの夜。
すべての光が絶え、街は暗闇に包まれた。四方で響く悲鳴と物音。視界は全く利かなかった。それなのにティランの姿だけは、はっきりと見えていた。
ティランの顔面は蒼白で、体には黒い靄のようなものが絡みついていた。足元からずぶずぶと、まるでそのまま真っ黒な海に沈んでいくかのように見えて焦った。
何度か物や人にぶつかりながら、駆け寄り、手を取った。そうするとその、ティランに絡みついていたものは霧が散じるようにして消え去った。
あれはつまりそういうこと。
殆ど走っているような速さで歩くグルナに、ルフスは言う。
「あの、この前も多分グルナさんのいう妖っていうやつにティランが襲われてて」
グルナは横目でルフスを見て、唇をゆがめる。
「ああ、あの子、どうも憑かれやすいタイプみたいね。あたしにはよくわからなかったけど、何らかの力を持ってるんだと思う。そこそこ大きな力。ただそれを自覚してないか、扱いきれていないか。いずれにしろものすごく無防備な状態なのね、たぶん。だから余計に狙われる。その力を欲する奴らがあの坊やに引き寄せられてやってくる。宿で見掛けた時も、あの子の周りにはたくさんの妖たちがいた。まあ大した力を持たないようなやつらだったけどね」
「じゃあ、もしかして同じように連れ去られた街の人たちも?」
「恐らくそうだと思うわ」
通りを抜けて、橋を越え、古い家々が並ぶ区域に入る。
グルナが口元だけで笑む。
「ねえ知ってる? この街の建物、殆どが新しくて綺麗だったでしょ? でもね数年前までは、もっと汚くて古い家がたくさん詰まってて、あんな洒落たところじゃなかったのよ。ガラス細工やレース生地が有名になって、歌劇なんかの名物を売りにして観光客を誘致するためにそうしたの」
「あ、そうなんだ」
そう言われれば、あの宿のある裏通り以外の、主に高級な店が並ぶ区域なんかは特に道も建物も整備されていた。
「この古い街並みは、今のリゲルには存在しないはずの場所なの」
「え?」
「近いわよ」
グルナは緊迫した声でルフスに言った。
「この先にいる。油断しないでね。危ないと思ったら逃げて」
固い面持ちのグルナから忠告を受け、同時に嫌な気配を感じ取ってルフスは気を引き締めた。だが、まっすぐに伸びた道は進んでも進んでも何も起こらず、自分たち以外の何物かが現れることもなかった。
ルフスが妙だと思った同じタイミングで、グルナが足を止める。ルフスも立ち止まる。
「変ね」
「変ですよね」
順に呟いて、辺りを見渡す。
変わらない景色。
土壁と瓦の屋根の、年季の入った建物。道の両端のガス灯。通りを挟んで二階の窓から渡された洗濯物を干すためのロープ。ガタガタの石畳。
「歩いても歩いても同じ場所、ぜんぜん進んでない気がする」
「正解、たぶん当たってる。あんた冴えてるわね」
グルナは人差し指で右側の建物を示してみせた。
それは何かの店のようだった。
扉が他の建物とは違って両開きで、その横に看板が掛けられている。看板にはベッドの絵が描かれていて、宿屋だろうかとルフスは思う。
「ここ、さっきも見かけたわ。そこの窓の傍に置いてある鉢植えも同じだったし、間違いないと思う」
「邪魔されてる?」
「でしょうね」
「どうしたらいいですか?」
グルナはうーんと声に出して、視線を下げた。
「こういうのはたいてい正解の道がね、あるはずなんだけど……」
難しい顔で周囲に視線を走らせる。
グルナに倣って、ルフスもきょろきょろと首を動かす。
正解の道。
建物と建物の間に横道はいくつもある。
適当に、というか一つ一つの道を順番に試しながら進むわけにはいかないだろうか。
「あ、ちょっと。あんまり動き回るんじゃないよ」
何か目印でもないのだろうかと思って、うろつくルフスにグルナが言う。
何気なく近づいた狭い路地。奥で、ざわりと何かが散った。黒くてもやもやしていて、またあの靄のようなものだった。
「グルナさん」
ルフスは路地の奥をじっと見つめたまま言った。
「こっちです」
「なんでわかんの?」
眉をひそめるグルナの視線の先で、ルフスは犬のように鼻をひくつかせる。
「甘い、花の香りがするんです」
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