10. 王はひとり語りかける。
スクールの課題である絵を描くため、ユスティーナは窓辺に花瓶を置いて画角を決める。
椅子に座って絵の具を何色かパレットに出したところで突如雨が降り始めた。酷い雨だ。しばらく止みそうにない。
青空に花が映えると思ってこの場所を選んだのに、これでは今日は描けないだろう。
パレットの上に並べられたカラフルな絵の具は、ユスティーナが窓越しに陰鬱な雨雲を見ている間にも乾いていく。しかし絵の具のことも忘れ、彼女は椅子に座ってただ雨が落ちるのを目で追っていた。
「ルイは今、どこにいるのかしら……」
彼女が思いを馳せるルイは、ベンジャミン王の自室前で彼を待っていた。
まだ正午前。彼は日課の書類整理をしているところだろう。
仕事中に声を掛けるのも憚られる。
ルイはベンジャミンの仕事がひと段落するであろう正午過ぎまで静かに廊下で待っていることにした。扉に彫られた王国の紋章を眺める。
「……だな」
扉の内側から、ベンジャミンの低く渋い声が漏れ聞こえた。
来客はないと確認したはずだが、突然予定が入ったのだろうか。
そう考えて立ち去ろうとすると、よりはっきりと言葉が聞き取れた。
「ヘレン、君ならどうしていた?」
心臓が大きく跳ねる。ヘレンとはベンジャミンの前妻、そしてユスティーナの実の母だ。
ルイがエングフェルト家に来たときにはすでに亡くなっており、実際に会ったことはない。しかし優しく、様々なことにいち早く気付く聡い女性であったと聞いている。彼女がオーケストラに所属していたことも。
ベンジャミンのヘレンへの深い愛は有名だ。彼女が謎の多い死を遂げたとき、彼はあまりの悲しみに一週間ほど姿を見せなかったという。
同時期にルイも母のルアーナを亡くしているため、その点で王のお心が理解出来ると自負している。
ヘレンに語りかける時間を邪魔したくはない。今度こそ本当に立ち去ろうと、歩を進めたとき、扉が開いてベンジャミンが顔を覗かせた。何か気配のようなものを感じたのだろう。
「ルイか。どうした?」
「恐れ入りますが、陛下にお願いがございまして」
「入れ」
彼の背を追って入室しながら、ルイは顔色を窺っていた。
先ほどのヘレンへの言葉をルイが聞いてしまったことを、ベンジャミンは気にしているのか、あるいは気付いているのか。けれども何も言わない様子を見て、ルイも口を閉ざすことにした。
ダイニングルームほど広い部屋に、派手な柄の赤い絨毯が敷かれ、彼専用の重厚なデスクとチェア、それと別に応接用のローテーブルとソファだけが置いてある。壁一面が本棚になっていて、歴史を感じる書物も含めて大量の本が綺麗に並ぶ。
部屋に余白が多く淡白に見えるが、本棚の一部は押すと床ごと回転するようになっており、その奥には幼少期に好んでいたという動物のぬいぐるみが並んでいることは、執事たちにとって周知の事実である。
指で示されたひとり掛けのソファに「失礼致します」と断ってから腰を下ろす。ベンジャミンも向かいのソファに座って、ルイをじっと見つめた。
ベンジャミンの恰幅の良さと、印象的な鷲鼻は、彼の王としての威厳を表しているかのようだ。本人にその気がなくともつい気圧されてしまう。
膝の上で握った拳に力を込めて願いを口にする。
「外国語を学ばせていただきたいのです。高等部卒業までに学習する程度の外国語を身に付けたいと考えておりまして」
「もちろん、認める。王族のパーティーで、指導力が高いと評判の家庭教師がいると聞いた。彼を招いてやろう」
「そんな。僕は城の近くで開かれているという、外国語教室に通わせていただくだけで十分です」
ベンジャミンは、ルイの頭をくしゃくしゃと撫でた。彼にしては珍しく、優しく笑んでいる。
本人には畏れ多くて言えないが、ルイは彼の笑みに父を感じ、心がするりと解ける心地がする。
「私の自分勝手な要請で、お前が中等部に上がったと同時にスクールを中退させたのだ。学習の機会を奪った私は、出来る限り機会を与える義務がある」
「自分勝手などと思っておりません。僕を拾い育ててくださった恩があるのですから、僕のすべては陛下の所有でございます。しかしながら、僕のわがままを聞いてくださって、ありがとうございます」
失礼致しました、と言って退室しようとしたが、ベンジャミンはルイの頭に大きな手を乗せたままだ。彼の心の内を窺うように視線を向け、
「……陛下?」
と声を掛けると、彼ははっと我に返って手を下ろした。一度俯いて、再び顔を上げ、例の父のような笑みを浮かべる。
「ユスティーナとソフィアをよろしく頼む。ルイの持つ音楽に関する知見はきっと、娘たちに良い刺激を与えるだろう」
ソフィアに鬱陶しく思われていることは言えず、「そうなれるよう、より知見を深めて参ります」と答えて退室した。
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