9. ママ、お歌を聴いて。

 誕生日当日。病院のそばに建つ小さな音楽堂の重い扉を開けると同時に、ビアンカは感嘆の声を上げた。


 予想より遥かに高い天井、規則正しく並ぶボルドー色の座席、しんと静まりかえった空気感。息を吸っても、酸素が肺に回ってこないかのようだ。


 広いステージが暖色のライトを反射して、これからステージ上で歌うビアンカを萎縮させる。


 救いを求めるようにユスティーナのほうを向くも、彼女は音楽堂になんの躊躇いもなく足を踏み入れた。ステージに続く階段の前まで進むと、ようやくこちらを振り返る。


「ビアンカさんは、音楽堂で歌を上手に歌うために来たわけではありません。お母さまにお心を伝えるために来たのですよ。さあ、お心を伝える準備を致しましょう」


 手を差し伸べる彼女はステージを照らす光を背負っていて女神のようだと思った。


「はいっ!」


 駆け寄ると、弟妹たちもぞろぞろと後ろをついてきた。ユスティーナの細く美しい手を取り、ステージに上がる。ステージから見下ろす観客席はまるで群衆のようだ。不思議とどこからか視線を感じる。


 ポーン。


 音楽堂備え付けのピアノの鍵盤をひとつ、ユスティーナが鳴らした。少し遅れてステージに上がったルイは、異国人を二人引き連れている。ルイが背負うヴァイオリンケースのような容れ物から、弦が六本張られた楽器が姿を現す。


 異国人のうちひとりはルイのと似た四本の弦の楽器、もうひとりは先日城でルイが叩いていたドラムを手際良くセッティングした。弦楽器というとヴァイオリンやコントラバスくらいしか知らないビアンカは、楽器を肩に掛けたことにさえ驚いた。


 大きなアンプに繋がれた“四本の弦の楽器”ことベースは、エングフェルト王国では聴くことのない低音が鳴る。鼓膜をゆっくり揺らすようなその音を、ビアンカは「格好良い」と思った。


 ルイは“六本の弦の楽器”ことギターのチューニングをしながら、


「お母さまがいらっしゃるまで時間がありませんが、一度だけ合わせましょうか」


 と提案する。彼の視線はビアンカの弟妹たちに注がれていた。初めて耳にする楽器の音に怯える彼らを慮っての提案だろう。


「よろしくお願いします!」


 ドラムのカウントに続き、楽器の音が合わさった。


******


 ルイの言った通り、練習はこの一度しか出来なかった。


 シンバルの音が響き、わずかな時間の沈黙が訪れた後、皆興奮気味に拍手を送り合った。すると音楽堂の扉が緩やかに開き、看護師に車椅子を押されてビアンカの母が姿を現す。


 彼女を見るなり、子供たちの表情はみるみる明るくなった。


「ママ! 私ね、卵焼きが作れるようになったの」

「僕、ずっと速く走れるようになったんだよ!」


 ステージを降りんばかりの勢いの子供たちを、ビアンカが引き止める。


「降りちゃだめ! 今日はママに駆け寄るんじゃなくて。ね?」

「うん。お歌、うたうの!」

「ママー! 僕たちお歌うたうから、よーく聴いていてね!」


 客席に向けて手を振る彼らに応えて、母もにこやかに手を振り返す。笑みや仕草ひとつひとつが上品だ。ユスティーナは、彼女が子供たちに愛され慕われる所以ゆえんが、この短時間の挙動から分かったような気がした。


 ビアンカが一歩前に出て、


「一生懸命歌います! 私たちと、おひめさまと、おにいさんで作った曲、聴いてください!」


 と叫んだ。頷いてから、ユスティーナたちに感謝を述べようとする母親を制止し、ドラマーに目配せする。


「ワン、ツー、ワンツースリーフォー」


 ドラムスティック同士がかちかちと音を立てる。


 それに続いてユスティーナは鍵盤、ルイとベーシストは弦を弾き、ビアンカを含む子供たちは左右に揺れてリズムを取り始めた。


 楽しいという想いが溢れているかのような笑顔で、ユスティーナはピアノを弾く。そしてひとり歌い始める。


 ビアンカの母親も、車椅子の後ろに立つ看護師も、彼女の歌声を聴くのは初めてだ。


 思わず涙が零れるほど澄んだ美しい声。肌を滑り、そっと包んでくれるような声。豪華な音楽堂が、清々しいくらい何もない青空と草原に見えてくる。


『さりげなく支えてくれるやさしさに

 気付くのはなかなかむずかしい


 言いたいことはたくさんあるはずなのに

 根拠のない「後でいいや」で先延ばしにする

 私たちが呼吸してる“今”はこの“今”しかないのに


 伝えたいことを音に乗せて届けたい

 みんなで作った音を聴いてくれますか?』


 一瞬の静寂の後、ピアノが三音だけ鳴らされると、子供たちが思い思いに声を張り上げて歌い始めた。


『ありがとう ありがとう ありがとう

 だいすき ラブ 愛してる

 愛の言葉を全部詰め込んでママにあげるよ』


 声が重なるが母親には分かった。どの声が、誰の声か。スクールでの合唱会は体調が優れず行けたことがない。ようやく耳にする子供たちの明るい歌声に、涙が止まらなかった。


 母親への想いがぎゅっと詰まった曲。日々歌詞を考え、“ママ”のことを考えていたビアンカは、彼女が泣いて拍手をする姿を見て感極まった。声が震える。しかしぐっと堪え、どうにか最後の一言まで歌い切ることが出来た。


『これからも私たちのこと見ててね

 ママがびっくりするくらい立派な大人になるんだから


 それまではたくさん甘えさせて

 たったひとりの大切なママ』


 シンバルが響く。音楽堂には興奮した子供たちの切れた息と、手で顔を覆う母親の抑えきれない声が残される。


 ユスティーナとルイは空っぽの頭でただ母親の表情を窺っていた。本当に彼らは何も考えていなかった、いや、考えられなかった。脳が沸き立ち、指が震え、立っていられないような感覚が襲う。


 手を顔から離して大きく拍手した母は、涙で濡れた目を細めて笑った。


「ありがとう。本当にありがとう。私にとって大切で愛おしい、ビアンカ、マイケル、メアリ、ジョーンズ……」


 彼女に順に名を呼ばれた子供たちが皆、嬉しそうに手を挙げて「はい!」と応えた。彼らを見てもらい泣きしているユスティーナに、母は深々と頭を下げて言う。


「私の娘たちが殿下のお手を煩わせて申し訳ございません。これまでの人生で、最も記憶に残る誕生日になりました。どうお礼申し上げれば良いのか」

「顔を上げてください。私たちにとっても曲作りは初めての経験で、音楽のことを考え続ける生活に充実感を覚えました。曲作りも当然貴重な経験ではありますが、なによりお母さまの誕生日という大切な日にともに何かを成し遂げられたこと、それは私たちにとってかけがえのない財産です」

「僕もユスティーナさまのお姿を近くで拝見しておりましたが、僕が見た中で最も幸せに満ちた表情をしていらっしゃいました」

「ええ、ですからお礼を申し上げるのは私のほうです。ありがとうございます。そしてお誕生日、おめでとうございます!」


 ありがとうございます、と母親が涙ながらに言った途端、ステージを降りた子供たちが彼女に飛びついた。


 遠慮なく飛びつく弟妹たちの一歩後ろで、ビアンカがひとり母をじっと見つめていた。その視線に気付いた彼女は、弟妹たちの背中越しにビアンカを手招きする。


「ビアンカが私のためにたくさん考えてくれたのでしょう? ありがとう、もう立派なお姉さんね」


 そう言われ撫でられたビアンカは、顔を綻ばせて母親の胸に顔を埋めた。


「あらあら、やっぱりまだ子供かしら」


 笑う母親と、笑う子供たち。ユスティーナとルイは彼らを見ながら静かに音楽堂を出る。


「人って暖かくて、素敵ね」


 ルイはユスティーナの言葉に微笑みを返して、音楽堂の外で待っていた馬車へと乗り込んだ。


******


 音楽堂の陰で馬車を見送る人が数人。


「ソフィー、感動したんだろ? 素直にユスティーナさまに思ったことを伝えれば良いのに」

「うるさい。別に感動なんてしてないわよ。レオこそあたしと一緒にいないで、早く城へ行ってパパと話してくれば良いのに」

「そんな濡れた目では何を言っても意味がないぞ」


 ソフィアは慌てて目元を指で拭った。ふんと鼻を鳴らして馬車に乗ると、レオナルドも同じ馬車に乗ってきた。


「自分の馬車に乗りなさいよ」

「良いじゃないか。僕が乗ったからといって狭いわけでもあるまいし」


 言い返すのも面倒で、ソフィアは座席の端に寄ると目を瞑る。レオナルドが視線を向けていることも知らず、あっという間に眠ってしまった。


 馬がいななき駆け出す。馬車は路面の凸凹に合わせて揺れる。窓から見えるエングフェルト王国の景色が流れていく。


 そしてレオナルドは、自国であるコーレイン王国の未来を案じていた。

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