駆け込み乗車
「――とはいえ、だ」
いざ家の前まで来てみると、不思議と足が止まった。膝が揺れている。寝不足あたりに責任を押しつけたいが、そういうのはもうやめようと決めたばかりだった。
ラズリは大きく息を吸い、右の拳を持ち上げた。ブザーは触れない。叩くしかない。立板から五センチ離れたところで手を止め瞑目、ゆっくり息を吐き出して、開眼。叩く、寸前、音もなく扉が開き、
「……あっ」
ブルーと目があった。準備してきた台詞は吹っ飛んだ。
ふたりはためらいがちに視線を絡ませ、やがてどちらともなく俯いた。
「……ラズリ、ひどい顔してる」
「……ちゃんと見たか? 昨日の夜よりゃいい顔してるはずなんだけどな」
「ほんとに?」
細い顎が上がるのを上目で見、ラズリは細い躰に抱きついた。ぐりっと、アバラにコルセットリグが食い込んだ。頬を擦り寄せると、ブルーはくすぐったそうに身をよじった。
「これじゃ、いい顔してるか見れないよ」
「ごめん、すげー待たせた」
「……うん」
ラズリは腕に力を込めた。
「ギリギリ、間に合ったか?」
「うん。伸ばした手に掴まったって感じ」
「ありがとう。手ぇ伸ばしてくれて」
躰を離すと、ブルーは目に涙を滲ませて、微笑んでいた。
「絶対、来てくれるって思ってたから」
ブルーは手袋で隠した義手をラズリの頬に伸ばし、一瞬とまどうように宙で止め、握り、開いて、そっと撫でるように触れた。
ラズリはその手に手を重ね、またブルーの頬に触れた。
「殴っといて泣くやつがあるかよ」
「殴っちゃったから泣いてたんだよ」
ラズリは手をブルーのうなじに滑らせ、そっと引き寄せた――が、
「……僕、邪魔かな?」
ブルーのすぐ後ろから聞こえてきた困ったような声に苦笑する。
「なに言ってんだよ、アズール」
ラズリは首を傾げてブルーの肩越しに言った。
「お前もいるから来たんだよ。こっち来な」
ラズリはブルーの腰に手を回し、おずおずと近づいてきたアズールの肩に手を置いた。
「――で、フル装備で準備万端のとこ悪ぃんだけど、一箇所だけ付き合ってくれねぇかな?」
「ボスボスさんですか? って、フルールが」
「そう。いくらなんでも黙って出てったら大騒ぎになっちまうだろ?」
「……でも、許してくれるかな?」
ブルーが眉間に細かな皺をつくった。
「会ったら反対されそうでさ。だから――」
「聞いてみなくちゃわからねぇだろ」
ラズリは苦笑しながらブルーを引き寄せた。
「まずはちゃんと話をする。それでもダメってんなら強行突破。あんときもそうだったろ?」
三年前の忌まわしい記憶のはずが、なめらかに言えた。
守りたかった人を失ったのだ。間違ったやりかただった。そう思うのは容易い。楽だ。選択肢から外してしまえば選ぶという苦悩は確実に減る。
選択は痛みをともなう。痛みを知っていて、なお選ぶには、勇気がいる。
勇気をもって下した決断は恥ずべき選択ではない。
ラズリは思う。恥ずべきは失敗から目を背けること。足らなかったものを見つめ、受け止めて、さらに前に進もうとしないこと。
三四三番の誰もが知っている。
選択したラズリ以外の誰しもが知っていることだ。
俺が前を見ないと、みんなが後悔しつづけちまう。
ラズリは決然とした足取りで、ふたりを連れて塔に入った。
早朝ゆえに当たり前だが、ボスボスの部屋の前に相談希望者の姿はなかった。ラズリは扉を叩き、黒服が出てくるのを待たずに中に入った。
「……どうした?」
ボスボスは声を荒らげることすらなく、ラズリと、連れのふたりを目にして言った。
「……決めたか」
「ああ。決めた。俺とブルーで、アズールを家まで連れてこうと思ってる」
ボスボスはモニターに目を向け、キーボードを叩いた。
「ずいぶん時間がかかったな」
ほっとしたような一言に、ラズリは顔をしかめた。
「なんだよ、それ」
「そう言いだすのをずっと待っていた、と言ったら怒るか?」
「――あぁ?」
待っていたというからには、相応の仕掛けか、準備をしてあったというのか。
ラズリは憮然として腕を組み、一瞬、肩越しにブルーに視線を走らせた。
「俺らが出てって……やってけんのかよ?」
「わからん」
「わからん、じゃねぇだろ?」
ボスボスの素っ気ない回答に、ラズリは机まで詰め寄った。黒服が顔を見合わせてから動き出し、ボスボスがすぐにそれを止めた。
「やってもないのに大丈夫だとは言えない。無責任だ。だが、やってみないとできるかどうかもわからん。ラズリがそうしたいというなら止める気はない。――というかだな」
ボスボスは吹き出すように笑った。
「応援してやる」
「……はぁ?」
ブルーたちと顔を見合わせるラズリを前に、ボスボスはモニターに横目を走らせた。
「知ってるだろ? 三四三番の誘雷塔はずっと調子が悪い。いつまでもつのか正直わからない。まぁ、みんなはそうそう壊れやしないと思っちゃいるが、俺はボスだからな。最悪の事態に備えておかなきゃならん」
「備える?」
「ああ」
ボスボスは躰を傾ぎ、ラズリの躰越しにブルーたちに言った。
「すまんが、ここから先は俺とラズリだけで話がしたい。いいか?」
「えっ……でも……」
ブルーは傍らのアズールに目をやった。
「僕は構わないけど……」
アズールは、強行突破? と尋ねるかのようにセリーヌを吊る肩紐を引っ張った。
ラズリは首を横に振った。
「大丈夫だから、ちょっと外で待っててくれよ。――そんなにかかんねぇだろ?」
ボスボスが頷くのを見て、アズールは肩紐を握る手の力を緩めた。
「じゃあ僕たちは外で待ってるから、必要なら呼んで」
「ああ」
必要ならってなんだよと苦笑しつつ、ラズリはブルーとアズールの背を見送った。
「なにやってんだ、お前らもだよ」
促され、黒服たちは一瞬の逡巡の後、踵を回した。急に部屋が広くなったようだった。
「……で?」
ボスボスが話しだすのを待っていたら緊張で喉が狭まる。ラズリは先に発した一音を手繰って言葉を継いだ。
「わざわざ人払いまでする話ってのは?」
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