地平の青
「……いつか地平線の向こうで青空を……か……」
ラズリは背もたれに体重を預け、本棚に目をやった。古くさい本が並ぶ中段の、さらにめいっぱい端っこに、約十センチの空白をはさんで布張りの小さな青い背表紙が一冊、二冊――
一緒に暮らしていたころはしょっちゅう開いたのに、三年前から今日まで一回きり。
ぐらりと躰を揺すって立ちあがり、ラズリはアルバムを持ってソファーに戻った。
擦り切れ気味のプリントで『空色の写真帖』と題された青い表紙に、古びて黒ずんだ雲のシールがいくつか貼られている。
そんなに夢見がちだったかな? とラズリは苦笑しながらシールを撫でた。
目に飛び込んでくる一枚の写真。ラズリと、ブルーと、あいだにオフェリア。まだ幼い顔立ちの三人が、みんな晴れやかに笑っている。いつ撮ったのかはおぼえていないが、どのアルバムも一枚目は同じ銀塩の写真だ。
ラズリは目元に熱を感じ、顎をあげた。ゆっくりと息を吸い、細く長く吹き、アルバムに視線を落とす。大きさも、形も、プリントすらまちまちの写真ひとつひとつに、オフェリアの丸っこい文字で注釈がついている。これはいつの写真、これはどこ、お兄ちゃんはいつもこう! 発見者のブルーに拍手!
もっと何枚もあったはずだ。目に映るすべてのものを残そうというかのように写真を撮っていたのをおぼえている。アルバムにはそれが収められていない。
あのころは、なぜ何枚も写真を撮るのかわからなかった。自分の目で見ればいいと考えていたし、忘れたりしないと素朴に信じていた。
手元にない写真のほとんどすべてを、ラズリはひとりで見られない。オフェリアが、ブルーたちの手を借りて実体を与えておいてくれなければ、一枚も見られなかった。
「……バカだったんだ」
俺は子どもで、想像力が足りなかったんだ。ラズリはページをめくる。水っぽくなった視界のなかで、オフェリアが大人になっていく。そばにいるブルーも、ラズリも、どんどん大人びていく。やがて、最後の一ページを開くとそこに、
『寂しくないよ!』
時を止める直前の、オフェリアがいた。右手にラピス・ラズリのチェーンを持って、左手に青い熊のぬいぐるみ。場所は……場所はどこだろう。誘雷塔の頂上だろうか。
こんな写真、撮った記憶がない。見たおぼえがない。
「……なんだよ、この写真……いままでどこにあったんだよ……っ!」
ラズリは三年ぶりに泣いた。とっくの昔に枯れたはずの涙は、溢れはじめると止まらなくなった。声を殺すのがやっとで、写真が汚れないように隠すのもままならない。
震える指で写真に映るオフェリアの輪郭をなぞり、落ちた水滴を払い、そして、
「……『ここに青空の写真を貼って!』……」
写真のすぐ上にある不自然な空白に、掠れた文字でそう書かれているのに気づいた。文字だけが、指で擦って削り取ったようになっている。そうしたのは、
「……俺か……」
ラズリの内側で、ずっと閉じられていた記憶が開いた。
見たくなかったのだ。現実を。失ったものを。
叶わない夢から目を背けたかったのだ。
オフェリアはわかっていた。青空を見たくてもシリンダーズは塔から離れられない。地平線の向こうに自分は行けない。誰かに見てきてもらうしかない。写真を撮ってきてもらうしかない。誰かが行って、戻ってくるまで、待っていなくてはいけなかった。
オフェリアは知っていた。
「知ってたから……俺の、ために……」
寂しがり屋の兄のために。心配性の兄のために。
自分が足枷になってしまわないように。
いつか地平線の向こうを見たいという兄に、自分の夢を重ねた。
ラズリは顔を覆った。息とも声ともつかない音が漏れた。押さえきれなかった。隠す気もなくなっていた。嗚咽しながら残りのアルバムを開くと、どれも同じ写真に始まり、最後には必ず『ここに青空の写真を』という願いと、逃げようと爪を立てた痕があった。
オフェリアはずっと先を見ていた。甘ったるい微睡みのなかにいたのはラズリだ。
停滞を望んで気怠さのうちに逃げ込んだのは、
「……俺だ。俺が……俺がオフェリアを言い訳にしてたんだ……」
気づいていたのだ。都合のいい理由にされていると、オフェリアは察していた。
甘えさせてやるフリをして、甘えていたのは、俺だったんだ。
終わりを見なければ次を始められない。
そう言って本の歯抜けを探していたブルーの気持ちが、ようやくわかった。稲妻とともに立ち顕れる閉じた系は、顕れたことでふたたび開く。
やがて外が白みはじめると、ラズリはアルバムを閉じた。涙は乾いていた。寝不足で頭は重いが、しかし胸の奥につまっていた違和感は消えていた。
「……青空の写真、撮ってこねぇとな」
ラズリはアルバムを本棚に戻し、顔を洗った。鏡の向こうに、トシのわりに老けて見えると言われた青年の姿はない。いるのは少年、男のくせに瞼を赤く腫らしたガキひとり。
「許してくれっかな?」
鏡に尋ね、ラズリは苦笑した。
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