そっちはやめろ

 あんな思いをするのは、選ばなくちゃいけないのは、もう嫌なんだよ。


「――無理したっていいことないだろ? 俺たちならやってけるさ。な? そうだろ?」


 気づけば、ほとんど懇願になっていた。額には変な汗が浮き、やたらに口が乾いた。

 ブルーはずっと俯いていて、黙って話を聞いていた。

 だが、顔をあげたと思った次の瞬間、


「――ふざけんなッッッ!!」


 ブルーは叫んだ。義手でラズリの襟ぐりを掴み、力任せに引き寄せた。


「ラズリ! 本気で言ってんの!?」

「なんだよ!? なにキレてんだ!? 本当のことだろ!?」


 突然ぶつけられた生の感情に、口いっぱいのところで押し留めていたものも溢れた。

 ラズリは襟を締め上げる義手を掴み、違和感は肚の底に沈めるつもりで声を張った。


「また失敗したらどうすんだ!? 今度は腕や目だけじゃすまねぇかもしれないだろうが! 俺はもう嫌なんだよ! あんな思いは二度としたくねぇ! わかんだろ!?」

「わかるよ! わかるから! 私は怒ってるんだ!!」


 襟首を掴む手を変え、ブルーが機械の右腕を引き絞った。殴る気だ。


――俺のくれてやった腕で。


 頭に浮かんだ言葉が、肚の底の違和感が、ラズリの躰をがんじがらめに縛った。

 ブルーは鋭く息を吐き、拳を振った。


「いい加減、目ぇ覚ませ!」


 ガツン!! 

 と、硬く鈍い音が響き、ラズリの目の奥で火花が散った。口中は一瞬で鉄錆の味で一杯になり、膝からストンと力が抜けた。世界が回る一撃。いくらなんでも本気すぎだろ、とラズリは無理矢理にヘラヘラと笑った。


 もう一発、火花が散った。


 首がもげたんじゃないかと思った。襟元のボタンがちぎれて飛んだ。


「――ッカ、オ、バッカヤロ……!」


 ラズリは襟首を掴むブルーの左手に掴まり、かろうじて膝立ちで耐えた。

 ブルーの右目が蒼く光っていた。


「――もらった手で殴ってごめん」静かに言った。「目をくれてありがとう。私はラズリのおかげでドライバーになれた。ありがとう。何回お礼を言ったって足りない。でも――」


 さっと顔を伏せ、ブルーはいくぶんか水っぽくなった声でつづけた。


「ラズリの言い訳になるくらいなら……いらなかったよ。ラズリが嫌なやつになってくのを見るくらいなら、片目のまんまでよかった!」


 窓辺から差し込む微かな光で、ぽつりと落ちゆく涙が光った。


「……ブルー、なに言って……」

「殴ったりして、ごめん。私、最低なこと言ってる。後悔してる。嫌われたらどうしようって、さっきからずっと、そればっかり――ラズリに嫌われたら、たぶん、私、泣く」


 じゃあなんで殴ったんだよと、訊く必要はなかった。

 涙でくしゃくしゃになった顔をあげ、ブルーは言った。


「ラズリ……あの子はオフェリアの代わりなんかじゃないんだよ? 私や、三四三番のみんなは、ラズリの言い訳の道具じゃないんだよ……?」

「……俺、は……」


 なにがしたかった? 

 家族ごっこがしたかった。現実を認めたくなかった。すべて自分が悪いのだと甘ったれた叫びをあげて、目に映るすべてに覚めない夢を見ようとしていた。


 やばい、とラズリは思った。顔が歪む。視界が滲む。頬の痛みが消えた。唇が震え、動きだす。なにを言おうとしてる? ダメだ。やめろ。嫌――、


「――ッ!?」


 叫ぶ寸前だったラズリの口を、ブルーの唇が塞いだ。

 ただ押しつけているだけなのに、肌をあわせているときよりも熱く感じた。

 ラズリが息をするのも忘れて見つめていると、ブルーは名残惜しそうに躰を離し、唇についた血を舌先で舐め取った。


「私、おぼえてるよ。いつか青空をみたいって言ってたの、忘れてない」

「ブルー……――って、うぉ――!?」


 ぱっ、と襟首を離され、ラズリは尻もちをついた。突然のキスに気を取られて治まっていた視界の揺れが、ぶり返してきた。


「ラズリに嫌われるのはイヤだけど、ラズリを嫌いになるのはもっとイヤだから――」


 ブルーは動けずにいるラズリの横をすり抜ける。


「私、行くよ。もう決めた」

「は、あ?」


 意味わかんねぇ、とラズリは仰け反るようにして背中を目で追う。

 ブルーが振り向き、ビシッと義手の人差し指をこちらに突きつけた。


「今日はウチに来ても入れてあげないからね?」


 言って、扉の向こうに消えていく。

 しばらくポカンとしていたラズリだったが、はっと気づいて立ち上がり――コケた。


 ブルーの拳が足にキていた。ぐるぐる回る床の上で、謎の浮遊感に胃袋を揉まれながら、慣れてないから加減ってもんが分かってねぇんだよな、と鼻を鳴らす。


「……嫌われたくないのはこっちだっつの……」


 揺れる天井に息をつき、ラズリは目眩がおさまるのを待って躰を起こした。

 展望台の入り口に貼られた貸し切り表示の張り紙を引っ剥がし、順番待ちをしていた連中の憐れむような視線を受け流し、懐かしき我が家への暗い帰途につく。


 玄関で足を振り回して靴を脱ぎ捨て、両手を打って電気を灯し、ラズリはソファーに倒れ込む。頭痛が眠りを許してくれそうにない。


 ひとりで夜を過ごすんなら『ディープ・シー』も解禁してやろうか。

 一瞬、そんな考えが首をもたげた。吸えば悪いほうにキマる。ため息まじりにポケットに手を入れると、指先が避妊具の箱に触れた。無性に腹が立った。開封して水と氷をつめて氷嚢にしてやろうかと思った。ガキくさいから却下した。

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