本音

 それから一時間ほどの後、さっさと行けとうるさいネリーに根負けし、ラズリは仕事を切り上げた。外階段につながる気密扉の重いハンドルを回して開くと、外は夕焼けに染まっていた。ウィーザーズ用のエレベーターもあるのだが、外の空気を吸いたかった。塔に吹きつける風は手すりを離せないほど強く、夏の暑さを忘れさせた。


 普段は灰色の濃淡しかない空も、日が落ちきる間際は薄ぼんやりと赤くなる。じきに青だか黒だかわからなくなり、明け方の一瞬、世界は紫に染まり、また灰に還っていく。


 塔の周辺だけが夏で、そこから先は言葉通りの四季折々で。

 太陽と、流れる時間だけが、すでに閉じた系と、いまもつづく系を繋ぐ。

 本当に死んだといえるのだろうか。

 ラズリは鉄階段を鳴らしながら消えゆく色を見つめる。

 三年より少し前――いや、もっとずっと、ずっと昔、まだちびっこかったオフェリアと、まだ遠慮がちだったブルーの手を引いていたころ。


 夕暮れの空が赤いのは、赤色の波長が青色よりも長いからだと、オフェリアは言った。厚い雲は光を遮る。なのに空が赤くなるのは、地平線のずっと先のどこかで雲に切れ間があるからだ。だから、どこかにきっと青空があるんだ――と。


 ――いつか一緒に見れるといいね。


 ラズリは固く瞑目した。そのまま登りきり、まぶたを開けると、


「――げっ、やべっ」


 空の色が失くなりかけていた。ラズリは大急ぎで気密扉を開き、展望台を目指した。

 ブルーが好きなのは一瞬で消えてしまう紫の空だ。いまではすっかりタフになってしまったが、根っこはそうそう変わらない。


 せっかくのひとときを『貸し切り』の一文に阻まれた男女どもの恨めしげな眼差しに引きつり気味の愛想笑いを返しながら、ラズリはそっと扉をくぐった。


 普段なら白色灯が点いているはずの時間だが、青いフットランブだけが薄ぼんやりと床を照らしていた。薄紫色に変わりゆく窓の外と淡い光が混じり合い、塔の機器類や回路のランプを星の瞬きに変える。


 ブルーは窓辺の手すりに寄りかかり、夜の内側から太陽を見送っていた。その静かに微笑む横顔に、ラズリはかけようとしていた言葉を失う。


「――あー……悪ぃ、遅れた」


 そう口にするのが精一杯だ。

 ブルーが、ひとときも窓から目を離さずに、こっちにこいとばかりに手招いていた。


 ラズリはできるだけ音を立てないように隣に並び、同じように手すりに肘を乗せ、宵闇から夜に代わる一瞬を見つめた。鮮やかな紫が次第に色を濃くして、やがて――


「――おっそい! 遅すぎる!」


 ぼうっと青い瞳が光った。だが、口元は嬉しそうに笑っていた。


「もー、間に合わなかったらお仕置きするとこだよ?」


 そのすっきりした笑みに、ラズリは胸の奥に痛みをおぼえながら口を開く。


「悪ぃ。ちょっと緊張したんだよ」

「へー? 緊張してくれたんだ?」


 光を和らげる青い瞳。たぶん、そっちにじゃないけどなとラズリは思う。


「アズールはどうしてんだ?」

「ちゃーんと言い聞かせてあるから大丈夫。安心して寝てる……と思う」

「安心ね……」


 やっぱりそっちか、とラズリは鼻で息をついた。


「なんて言って聞かせたんだ?」

「なんてって……」ブルーが形のいい眉を微かに歪めた。「明日から、家につれてく準備を始めるって言ったけど……?」


 生身の瞳が鋭くなり、青い光が強まった。長い付き合いだからか、察しがいい。

 それに、それだけなら、まだ軌道修正できるとラズリは思った。


「……ラズリ? ちょっと、まさか……」

「……ああ」かくん、とラズリは重力に任せて首を振った。「連れてく気なんかねぇよ」


 キリ、とブルーが歯を軋ませた。


「……街に俺たちが必要なんじゃないって、俺たちに街が必要なんだって言ったよね?」

「ああ、言ったよ」


 ラズリが感情を乗せずに答えると、ブルーは長手袋に覆われた機械の腕で拳を握った。


「……行くんじゃないの? 猫の家を探しに」

「……なんでそうなんだよ?」


 ブルーは眉間の皺を深くし、ラズリに躰の正面を向けた。


「なんで? なんでって……さっきの、あれは……」


 途切れがちな、懸命にコントロールされているであろうブルーの声に、ラズリは口のなかで舌をまごつかせる。言い難いが、言わなければならない。


「……あんなんウソだよ。そうでも言わなきゃ、あいつ諦めなかったろ」

「ラズリ……? それマジで言ってる? 冗談じゃなく?」


 咎めるような物言いにラズリは内心で舌打ちした。どうしてこう聞き分けねぇのと、いったい何を期待してやがったんだと、分かりきったことを口のなかで繰り返す。

 いままでにないような強烈な違和感が胸を突き、違和感の正体を知っている自分にはらわたが煮えくり返り、膨れ上がった感情が喉を駆け上った。


「猫の家を探しに行く? 正気か? あいつは百年以上前の人間なんだぞ? 行っても無駄だろ。なんもない。あっても生きてる奴なんかいない」


 なんの制御もなしにぶつけてはいけないと思うばかりに、声が冷えた。

 ブルーは下唇を軽く噛み、足元を見つめていた。

 沈黙を肯定ととり、ラズリは言葉を重ねる。


「まずは静かにしてもらって――あれだ、街の外でさ、テキトーな、あんまリスク高くねぇところを猫の家の座標だって言って、諦めてもらおう。眠ってから何年も経ってる。どうせわかりゃしねぇよ。諦めさえつけばいいんだ。諦めたら、また元通りだろ? 昔みたいに、オフェリアも居たころみたいに、三人でやってこう。時間が解決してくれるさ」


 自ら吐いた言葉の薄っぺらさに、ラズリは吐き気をおぼえた。

 けれど、もう失敗したくなかった。

 進むのはリスクだ。失敗したら取り戻せない。とにかく安全な道を選ぶ。

 思えば思うほど違和感が強くなった。だが、


「それに、ほら、知ってるだろ? 俺とブルーがいなくなったら三四三番も終わっちまうぞ? 俺たちブルー・トレインは――」


 しょうがないんだ。しかたがないんだ。他に選択肢なんてないんだと、ラズリは内側で膨れる違和感を押さえ込む。重ねれば重ねるほど言葉が空虚になり、圧力をかければかけるほど苦しくなっていく。それでも、諦めたほうが楽だと言い募る。


 もう嫌なんだ。

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