一瞬の熱

 ラズリはアズールの肩を突いた。


「帰んぞー? ドクは今日はもう上がっていいってよ」

「……またクビ?」

「クビって」


 ラズリは苦笑する。


「ドクはそんな厳しかないよ。どっちかっつーと甘々だ。たぶん腹立ちまぎれにぶん殴っても許してくれるよ」

「そんなことしない」


 すっとアズールが顔をあげた。目が少し腫れぼったい。

 泣くほどかよ、とラズリは肩をすくめた。


「メシでも食うか? ちっと早ぇから手の込んだもんも作ってやれるけど……」

「『ちっと』? どういう意味?」

 

 アズールは泣き笑うように顔を歪めた。


「なんでもいい」

「残念。だけは切らしてんだ」


 ラズリはアズールを引っ張り起こし、診療所を出た。

 それから、あれは嫌だこれは嫌だというアズールを連れて(半ば店主の趣味と化した)食堂に赴き舌鼓を打ち、自宅に戻り、映画鑑賞に付き合い、数日のあいだ夜になるたびそうしていたようにブルーの家を訪ねた。アズールに目隠しして風呂にいれるためだ。

 もちろん、彼らの検査結果を見てもらうためでもあるが。


「……子どものころの私とおんなじだ。――ふふっ」


 と、ブルーは濡れた髪を拭きつつ検査結果を見て、小さく肩を揺らした。

 ソファーの上で楽しそうにしている家主を、ラズリは床で胡坐をかいて見上げる。


「笑ってていいもんなのか? なんかアイツにあった仕事をつくってやらないと……」

「なんで?」


 遮るように言って、ブルーは検査結果を投げてよこした。


「もしかして、ここに住まわせようと思ってたりする?」

「は? いや……あいつのことほっぽりだす気か?」


 ラズリは思わず声を大きくすると、しぃー、とブルーが唇の前に人差し指を立てた。


「いや、シー、じゃねぇだろ? 起こしちまった責任ってのがあるだろ」

「だから猫の家を調べてもらってたんだけど? どうだった? なにか分かった?」

「……男が金を払って店の子と自由恋愛をする場所らしい、だとさ。意味わかんねぇ」

「え!?」


 ブルーが眉を歪めた。


「シー、じゃねぇの?」


 ラズリはカーペットに寝転び、肘をついた。


「知ってんのか?」

「知ってるっていうか……」


 ブルーは湯上がりのそれとは違う朱を頬に差す。


「なん――っていうか、その……えっちする場所、っていうの?」

「は?」ラズリはあんぐり口を開けた。「自由恋愛っつってたぞ? どういうことだ?」

「それはほら、その……やっぱり……き、気持ちいいじゃん?」

「気持ち……」

「だ、だから!」


 ブルーは矢継ぎ早に言った。


「お金を払ってするっていうか? えっと……読んだことあるよ。恋愛感情がないのはまずいから? 一晩だけ恋するっていうか?」

「……なんだそりゃ?」


 古代の理屈は複雑だ。だが、頬を染めるブルーを見ればさすがに察する。ようは子作り――というかその前段階にともなう快楽に対価を支払う施設なのだろう。


 気持ちいいのは切実なまでに分かるが、金を払うというのは――分からないでもないか。一晩だけの恋とするのはよく――いや、それも分かる。むしろ一晩に限定したほうが、あるいは限定されてしまっているほうがより気持ちいかもしれないとすら思う。


 ラズリは湧いてきた奇妙な感情を飲み下し、ブルーに目をやった。ついこの間おあずけを食らったからか、目をそらす仕草が艶かしく思えた。瑞々しい太もも、細く引き締まった腹、ひととき束縛から開放された双丘、愛らしい唇、瞳――


「と、とりあえず!」


 ブルーは頬をほんのり色づかせ、立てた左手の親指でぎこちなく浴室を示す。


「さっさと、シャワー浴びてきなよ」

「……浴びてきたらいいのか?」

「……え、ぁ、ぅん……まぁ、うん……」

「……していいの?」

「~~~~! いいから早くいけ!」


 ブルーの剣幕に追い立てられるようにしてラズリは浴室に入った。

 熱いくらいのシャワーを浴びて一日の疲れを流すうちに、網膜に焼きついたブルーの照れたような表情を思い出し、ニヤけてしまった。浴槽に躰を沈めてみても冷静になれない。


「……何日……や、何ヶ月ぶり……か?」


 ラズリは念入りに躰を洗い、頭のなかでシミュレーションを重ね、浴室を出た。


「……お、ずいぶんゆっくりだった……ね?」


 ブルーは本を閉じ、ソファーの背もたれにのけ反るようにして逆さまの苦笑をみせた。


「……だいじょぶ?」

「……おう」

「こっちきなよ。髪、拭いてあげるから」

「……おう」


 しっかりのぼせていた。ラズリはふらふらとした足取りでブルーの正面に背を向け腰を下ろす。タオルが頭にかぶさり、硬質な手指と柔らかな手指の感触があった。


「もー、ちゃんと拭いてきてって、いっつも言ってるよね?」


 嗜めるように言ってはいるが、ブルーの声は明るい。

 髪と頭皮を優しく撫で擦られて、ラズリは情けない吐息を漏らした。

 それでも、浴槽に向かう前にした話は忘れていない。


「……で、シャワー浴びてきたんだけど?」

「……ほんと、すけべだよね、ラズリって」


 ブルーはクスクス笑いながら足をラズリの躰の前にまわし、引き寄せた。ラズリはソファーの縁にもたれ、顎下を這う手に引かれ顔をあげる。逆さまに映る愛おしい微笑。


「……ブルーが可愛すぎるのが悪いと思うんだよ、俺は」


 ラズリはブルーの生身の手を握った。鋼の手は、未だに触れていいのかわからない。


「ふ~ん? 私のせいなんだ?」


 ブルーはラズリの頭を抱きかかえるようにして顔を寄せた。


「まぁ、あるかもね?」


 逆さまのキス。小鳥がついばむように唇を触れ合わせ、離れ、また触れて。やがて、どちらともなく互いを求めて口を開く。舌を絡め合ううちに息が乱れ、ブルーの唇から熱い吐息が零れた。蒼く光る右の瞳を少し照れた様子で閉じ、潤んだ左の視線が逃げた。

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