三回忌
ソファーの上で瞬き、かけていた上着を払いのけ、ラズリは酒気で痛む頭を擦った。
「……忘れねぇもんだな」
思い出したくない記憶ほど頻繁に思い出されるものだ。
今日で、ちょうど三年が経つ。
まだ一四だったラズリが、まだ一四だったブルーを巻き込んで、一一歳で時を止めることになった妹のオフェリアを医者に診せようと、三四三番のトレインを一両盗んだ。ラズリたちの住む街の名前と同じ、車体番号三四三の車両だ。
ラッキーナンバー、七七七。
七かける七かける七は三四三だから、幸運が生んだ数字なんだとブルーは言った。
しかし、あの日のブルーは、とびっきりの不幸を身に受けた。
――オフェリアも。街も。
ラズリは深いため息をつき、ソファーの肘置きを下に押す。足元の酒瓶を拾い、かろうじて床に飲まれずにすんだ旧式車両の燃料にも使える強い酒精を一口ふくみ、胃袋に。空っぽだからか、やたらと染みた。
「っあああぁぁぁぁぁぁぁ……キッツ……慣れねぇことするもんじゃねぇな……」
十連勤が明けたばかりだった。借金返済の足しになればと自ら望んだ十連勤だが。
ラズリはカーテンを開き、飛び込んできた日光に涙を滲ませながら、街の象徴にして昨夜の二二時まで閉じ籠もっていた塔を見上げた。
天まで伸びろとそびえる、誘雷塔。
豊穣と混沌の力をてっぺんで受けとめ、豊穣の力で万物(といっても限りはある)を生み創り、混沌の力は大地に逃す、住民の生活を維持するための施設である。
鋼の外壁に、目に痛い赤色でデカデカと、三四三と刻まれている。街の名だ。
塔の足元を貫き南北に伸びる軌条を後ろ――北に進めば三四四番に着き、南に進めば三四二番に行ける――はずだ。ラズリはどっちも行ったことがない。
ちょうど三年前は、三四二番を目指していた。
「……はぁ」
ラズリはため息まじりに窓を開け、呻いた。
「ぐえぇぇ……暑っつぅ……」
街の内側は夏だ。出勤は日の出前、帰宅は夜で、すっかり忘れていた。
遠くに薄ぼんやりと見える街の境界線――人が住める=誘雷塔に守られている境界を示す軌条の外は、春夏秋冬がごちゃまぜになっている。さしあたり昨日の夜、塔で観測したかぎりでは、南側に出てすぐのあたりは秋らしき気配だった。
南端から北端まで六キロ。西から東が約四キロ。塔を中心に楕円を描くように敷かれた三本一組の軌条の内側が、三四三番のすべてだ。
娯楽らしい娯楽といえば、街の外で拾ってきた本や、映画や、好きな奴は音楽を聞いたり演ったり、まぁ噂に聞く他の街よりは恵まれている、らしい。
ただ、恵まれた環境にいるはずのラズリは三年前に興味を失くし、今はもっぱら、
「……寝よ」
ラズリは熱気と砂埃を吹き込むばかりの窓を閉め、ソファーにごろんと仰向けになった。酒を一口ふくんで舌の上で転がし、ローテーブルからシガレットケースを取って『ディーブ・シー』を唇に挟む。パキン、とオイルライターの蓋を開け、火を灯し、一服。
ねっとりとした粘着質な煙を吐き、しばしの酩酊を楽しむ。
酒は仕事量に応じて付与されるポイントで買うが、『ディープ・シー』はタダだ。街の外に広がる混沌のうち、中世風に変じた区画で見つかる草を加工する。
楽しめるのはラズリたち少数のウィーザーズだけ。街の人口の大半を占めるブルーたちマージナルスも、妹のオフェリアもそうだったシリンダーズも、煙を吸ったところでなにも感じられない……いや、臭いとか、煙いとか、そういうのはあるが。
酩酊が痺れとなって全身に回り、躰が泥のようにソファーへ沈む。
幻覚だ。
異常な知覚を味わっているときだけ、すべてを忘れて死人になれる――。
ガン、ガン、ガン、と外階段を昇ってくる足音がむやみやたらに大きく聞こえた。
膨れ上がる嫌な予感が、ラズリの躰を沼の如きソファーから引きあげる。
「おい! ラズリ! ラズリ!? いるのか!?」
扉を叩く男の声に、ラズリはほっと息をついた。ジルコだ。狭すぎて縁のない人間が存在しえない三四三番でも、とびきり腐れた縁をもつ、同世代のマージナルスである。
開いてるよ、とラズリが言うより早く、
「うわっ、くせぇ! ラズリ! お前また『ディープ・シー』吸ってやがんな!? せめて窓あけろ窓! 煙こもってんじゃねぇか! 躰に悪いぞ!?」
ジルコは勝手に部屋にあがってきたばかりか喚きながら窓を開いた。薄らでかくて筋肉質で汗ダラダラで、見るからに暑苦しいやつが生温い風までいれる。
ラズリはぷっと煙を吐き捨て、酒を一口呷った。
「いったいなんの用だよメシならひとりで行け。今日はもう一歩もでたくねぇ」
「おい、昼間っから酒はやめろって!」ジルコが酒瓶を取った。「こんなもん飲んでんの爺さんがたくらいだぞ? それにその『ディープ・シー』ってのも――」
「ほっとけ。一〇連勤明けなんだ、一日くらい好きにさせろよ」
「一〇連勤!? マジか!? ボスボスの指示かよ!?」
ボスボスというのは、街の管理責任者=ボスのボス・ボッサールのことだ。ボスのボス・ボッサールだからボスボス。役職と名前と面構えと話し方とガタイと……ようするにおっかなさの塊だが、街の生活レベルの維持を最優先に考えているので無茶は言わない。
ラズリはのらりくらりと躰を起こし、背もたれに体重を預けた。
「ちげぇよ。俺が言いだしたんだ。酒代のポイントが欲しくてな」
「はぁ? 酒なんて誰も飲まねぇし安いもんだろ? ホントはなんの――」
相変わらず察しのいいヤツだよ、と苦笑しながらラズリは尋ねた。
「んなことより、ぼっちメシは嫌だってんじゃなけりゃ、なんの用だ?」
「えっ? ああ、それなんだけど……十連勤明けじゃなぁ」
「……なんだよ? もったいぶんな」
「いやその、今日の探索担当だったウィーザースが急に出れなくなってよ。ラズリが代わりに出られないかって話で……」
ラズリは両肘を膝に落とし、マジか、とうなだれた。
街でウィーザーズが担う仕事は大きくふたつに分かれる。
ひとつは塔内で独自のネットワークにつながり、周辺地域の稲妻予報を出すこと。これは稲妻の落下点でおきる地形変化の予測とセットで、とにかく人手がいるので大部分のウィーザーズはこれに従事する。
もうひとつの大事な仕事は、街の外の探索に同行すること。
街を支える誘雷塔の生産設備には限界があり、作れないものや足りない物は街の外から回収してくるしかない。だが、街や身を守る軌条を外れるとなると、多大な危険を負う。
代表的なのがまさに稲妻で、落下による地形変化に巻き込まれれば命の保証はない。そこでウィーザーズが同行し、塔から離れれば離れるほど精度が下がる稲妻予測に現地で補正をかける――のだが。
「悲しいかな、動き回れて探索にも役立つウィーザーズは多くない」
「ああ? なんだよ突然。……まぁ、だから来たんだけどよ」
「いったい誰が休もうってんだ? ただでさえウィーザーズが足りねぇってのに、どんな理由をつけて休もうってんだ、その奉仕精神の足りないやつはよ」
「……あー……よく分からねぇけど、ゴネたらこれ渡せって」
言ってジルコは洋封筒を差し出した。ラズリは間髪いれずに引ったくり、まったくふてぇ野郎だなんだと心中で悪態をつきつつ、丁寧に畳まれた薄いピンク色の便箋を開く。
『ゴメン、生理きた』
……ざっけんな、と便箋を握りつぶし、ラズリは顔を伏せた。
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