評論6 失墜した物語-娯楽としてのイデオロギー-

 一体、いつからであろうか。『物語』という特異な形態の『想像力』が単なる『娯楽』になったのは。


 近代的世界は全体主義と帝国主義を持って終了した。そこでは様々な言説で『正義』が語られたが、誰もが信じたのは絶対的な『暴力』であった。


 『想像力』とはなんなのか?『物語』とはなんなのか?


 それは誰もが一家言ある『意識』の哲学(そしてそれ故、誰もが間違っている)の一形態なのである。


 なろう系にもはや意味はない。それは正統派なろう系やその派生、そしてなろう系のパロディやアンチテーゼさえ全く無意味で無価値で無内容なのである。


 現代の(それはポストモダンと呼ばれるかもしれない)『想像力』とは、無意味であるがゆえに意味があり、無価値であるがゆえに価値があり、無内容であるがゆえに、それは確かに存在した。


 なぜなら『想像力』は現実の鏡像でありパロディであるからだ。それゆえにメタレベル(つまり作品そのもの。というより作品に対する態度)によって価値や意味決定していたのだ。


 しかしそれは惨劇に終わった、あまりに悲劇的現象、大戦や冷戦、テロリズムの前にはあまりに無力であった。


 我々は学習的無気力にさいなまされた、我々の最後の手段は、無意味で無価値で無内容な現実を忘れさせてくれる『想像力』であった。


 そこに難解な文学理論、デリダだのフーコーだのドゥルーズだのはあまりに無駄が多い。

 

 そう、『娯楽』に哲学など不要なのだ、


 端的に言って『娯楽』は力を抜くものだ。全てがチープなら、チープさこそが人々にはある種の『虚構的リアリズム』を与える。


 我々は『嘘』に慣らされたのだ、あまりにも……。


 虚構が真実ならば、なにも『無い』


 それが現実なのだ。


 

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異世界転生モノはいかにしてゲーム的か 坂西警護 @tarantulata2

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