評論5 『大人』の陥落
『なろう系主人公』はもれなく『天才』である。
彼ら彼女らは、『神』により作られた人工の天才である。
『なろう系』の神にその宗教的意味合いはほぼほぼ無い。神は極めて俗的に(言い換えれば親近感のあるものとして)描かれる。
故に『天才』の『天才』たる、宗教的伝道師としての役割を等の昔に棄てている。否、元からなかったのだ。
彼は恐るべき卓越性をもって(しかし、それは偽造された…記号的卓越性である)人々を驚嘆させ。啓蒙される。
しかし、フランス革命時期やドイツ観念論のような啓蒙と雰囲気が違う。それはなぜか?
それは倫理的態度である『なろう系主人公』に一つの『大きな物語』としての倫理的態度や倫理的基準はない。
彼ら彼女らは潜在的にしろ顕在的にしろ『自己中心的』な態度をとる。
そして彼ら彼女らは、あくまでもリアリストな一面を多く覗かせ、大抵はそのような態度は肯定される。
『なろう系』に限って会えば『合理主義』とは、このような『自己中心性』と『現実服従性』が合わさっている。
しかし、その二つは相容れないのではないだろうか?
確かに『自己』と『現実』は違い。『中心』と『服従』は反発作用する。
しかしそれは『近代』という大きな装置の中でである。
『幼年期』とは克服されるべく『未熟』として描かれる『青年期』おいて『現実』と『自己』を確立しそして『大人』になりそれらは統合される。
『近代』の発達心理学は主にそのような『ストーリー』を描き『小説』それに追従してきた。
だがしかし、『近代、および大きな物語』は失墜し、人々は途方にくれた。『成熟』などに意味はないのである。
見習うべき『自然』が喪われたのである。
しかし、ロマン派のごとく感傷的な態度は所謂受けが悪い。
それは単なる退行的な態度であり『カッコワルイ』のである。
しかし『なろう系』はあまりにも退行的と言える。
では、『なろう系』はロマン派か?いや違う。
あくまでもロマン派は『退行』に意味を見いだすが『なろう系』は『退行』などという『近代的価値観』に意味など何一つとして見いださない。
『なろう系』において成熟モデルなど嘲笑すべき的でいかないし。それが現代的なのである。
なぜなら現代においてリアルとは造り出すものだからである。
これはまさに、『インターネット小説』である『なろう系』だからこその価値観である。
『インターネット』において全ては作り物である。そこに『自然』は無い。
そして、『インターネット』はあくまでも『参加型』のシステムである。
テレビや本にと言った前時代的なメディア媒体においてはあくまでも作為的であるが『自然』があった(なぜ、ユダヤ=キリスト教が近代にたどり着けたか?まさに自然を創り上げる『神』が居たからである)。
しかし、『インターネット』とというメディア媒体においては自己責任(これは自己中心主義の唯一の社会性である)のもと自在に現実を産み出す。
つまり、『インターネット』において『自己』と『現実』は統合され、『葛藤』というものに力点を置いた『成熟モデル』は棄却されるのだ。
故に『なろう系』においては『幼稚』との批判はあまりにも無意味である。それは古い価値観の元での意味だからである。
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