評論3 主体性の解体と存在神話

 我々は我々であるのか?


 『なろう系』のテンプレートへの追従はよく叩かれている。


 しかし、とは何かという根本的な問題にぶつかるのだ。


 すなわち作者は生きているのか?


 小説とは主体性の歴史の痕跡として見ることもできる。


 例えばスタンダールの『赤と黒』において主人公ジュリアンは主体的か?


 そう、彼は主体的である彼はレナール夫人に手を出さねばならぬというから何かをする。と非主体的である。


 彼は常に力への憧憬という衝動的な観念で動いている。彼は計算する。。どのように?


 計算とはルールの中でも特定の原因と結果という関数を探しだし実行する。その原因と結果は


 すなわち自由とは二つの意味のうち(障害がない。としての自由と。)後者を排除する。原因と結果に自己が介在する余地はないからだ。


 あくまでも原因と結果の羅列としての世界に自己を組み込み、そこに存在する自己をコントロールする。それが計算だ。


 鏡は二つの自分を写し出す。そのままの自分とである。


 赤と黒において彩る華であるマチルドとレナール夫人はジュリアンの似姿としてのマチルドととしてのレナール夫人。


 レナール夫人は主体的に神である父権的な夫に反逆者(父権とは秩序つまり原因と結果の関数である)として主体的に振る舞う。


 主体とは我思う故に我ありとデカルトから始まり知覚の束(ヒューム的表現)を束ねるカントで一旦完成した。


そしてフィヒテつまり私は私であるとしての哲学者(マルクス談)として頂点を迎える。


 しかしへーゲルは主体の歴史性なる、怪しげな理論を展開する(自由な主体に歴史はない、事にならねばならない。自由とは、あくまでもいかなる因果律からも説明できないある種の無根拠でなければならない。なぜなら原因と結果に自由が介入する余地はないからだ)。そのためジェイムズの指摘通り、ドイツ観念論は自由とは理性だの必然性だの世界精神だのに服従する、というおかしな話になったのだ。


 さてへーゲルすなわち主体性が終わり何かが始まった。


 それを文学的表現で表したのがシュルレアリスムやダダイズムである。


 彼らはを作成する。


 ここで『なろう系』に戻る。『なろう系』は工業製品と揶揄され文学ではない。と言われる。


 しかし、『私』の表現としての文学は主体性と共に死んだのだ。


 作者は主体的に自由にこではなく。あくまでも作成のマニュアルに沿ってれる。


 『なろう系』は、穴である。意味なき意味として意味を機能させる。


 メタレベルすなわち読者や作者レベルでの意味を『なろう系』は構築しオブジェクトレベルつまり小説世界での存在ではブラックホールの如く神秘的存在として在る。


 そこで『なろう主人公』はチートを手に入れた時役割を終える。彼、彼女らはメタレベルの現実的存在者であるためオブジェクトレベルでは


 そこで登場するのがという形で登場するのメタレベルにおいては神話的存在者であり、オブジェクトレベルにおいては現実的存在者(これは『なろう主人公』とは逆である)。


 その可愛そうな存在者は救われることにより単なる存在(存在者でない)としての読者を救済するのだ。


 存在とは存在者ではない、なぜなら存在者の前提が存在であり、存在が存在者ならば、存在者が存在者の前提になる。それは自分で自分を前提とするので


 しかし、可愛そうな存在は形式化された自己から非形式化された自己へと救済されるのだ。


 例えば奴隷を奴隷から解放する。すなわち奴隷は奴隷という社会的身分から、奴隷でもなく、市民でもなく、貴族でもない。社会から外れた存在者になるのだ。


 社会とは人と人のネットワーク(すなわち形式)である。そこから外れたもの。つまりな者。


 奴隷は、僧侶になったのだ。


 遅かるだか可愛そうな存在は僧侶として自己→主人公→自己たる、読者を救済されることで救済するのだ(助けた浮浪者が実は神で救われるという話と似た構造を持つ)。


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