評論2 三つの物語。
ではなぜそうなったか?
我々は共有できる信頼のある物語を失ったからである。
故に自己意識のみで物語を維持できなければ物語は崩壊し、衝動的な欲求のみが残る。
それでは生きていけないので我々は自己の物語を作る。
物語とは真実でなければならないしかし同時に自分の都合に合わせて作り上げた虚構でもある。
つまり、いかにもポストモダンな言い方をすれば大きな物語の喪失の時代である。
それは大きな物語の喪失という大きな物語がついには喪失した、つまり誰も大きな物語には関心を示さなくなる時代である。
オタクは物語に酩酊した人物である。
オタクとは何か熱心な人である。つまり何か意味を見いだしている。意味とは物語の立ち位置として現れる。
しかし、大きな物語の喪失とはまさに千差万別の小さな物語の闘争の時代である。
人は世捨て人にならねば戦わなければならない。
しかし、勝負には多くの敗者が存在する。
敗者は二者択一である。物語の敗北を認めず戦う(否認)か、物語を再構築するか(許容)。(むろん第三の選択肢としての自殺。究極の世の捨て方もあるが)
物語を再構築するときには、メタ物語的視点が必要である。
現実(すなわち各種最強の物語)と折り合いをつける賢い生き方とは敗北した物語にたいしメタ物語的視点に立ち物語を修正する生き方である。
我々は賢い生き方の過程で信頼=物語=現実という三位一体を捨てなければならない。
そのため、我々は戦ったすなわち信頼していない物語をあたかも信頼しているかのように振る舞って修正を迫られる。
そもそも、大きな物語とは現実であり真実であり戦うことのできないのモノである。
例えばゲームの敵に対しそのプログラムを不正に改竄したとき戦う相手はすでにゲームの敵そのものではなく開発者が敵になっている。つまり敵が変わる。
何がいいたいのかというと。舞台(これは大きな物語のメタファーである)と戦うことはできないのだ。
前提とは公理である。そして公理とは二つの意味がある疑い用の無い事実があるいはそう言うものとして扱う虚構である。
この世界をメタ的な視点で立てばすべての現実とは前提も根拠もない、砂上の楼閣である。
そして、そのようなメタ的な視点に立たねば我々は生まれながらの強者以外は生きていけないのである。
つまり、ここでなぜ異世界転生者がもと居た世界に興味を示さないのか明らかになる。
それは物語として機能しなくなったゴミであるからだ(ゴミを食べれば腹が壊れる)。故に無価値なのである。
テンプレとしての『なろう系』はこうである。
主人公は何らかの理由で死に至り、別のルールの支配する世界に行く元の世界のルールを扱い勝利する。
つまり異世界転生者は先ほどの上げた三つ。別のルール(すなわち物語)の支配する世界に行く(許容)、元の世界のルールを扱う(否認)、死に至り(自殺)を三つとも代理として選べる構造となるのだ。
すなわち、どのような選択肢をした人間でも受け入れる構造なのだ。ただし虚構として!
メタレベルの視点に立つ現代社会の想像力にはこれ程ふさわしいストーリー展開はない。
『なろう系』は正しい。その虚構を事実として扱う態度が
『なろう系』は間違っている。その虚構を事実として扱う態度が
この両義的な態度が古典的な人物を、オタクはその熱心さが故に許せない……いなオタクコンテンツに全くオタク的でない不気味なモノガタリモドキが侵犯することが許せないのだ。
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