評論 ゲーム的なろう。
さて、まずはネット小説世界でははずして語れない『なろう系』は特定の層からはこのように言われることが多いような気がします。
「薄っぺらい」「作者や読者の妄想」「主人公に自己投影してそう」等。
また、一部ネット小説の批判として『ステータス』にも批判が及びます。
しかし、これらは創作物としてのレベルが低いからというよりも、むしろ単位が違うのに、単位が同じものとして扱われることによる弊害なのです。
要するにアニメやネットは『オタク』の生息地ではなくなったということです。
オタクとは、物語に意味を見いだすものです。
実は『なろう系』は現実と虚構の区別がついており。
その批判者が往々にして現実と虚構の区別がついていない。
まずはゲームについて少し分析しましょう。
ゲームはその固有のルールを持っている。
ルールなきゲームはゲームではない。
そして、ゲームは虚構のルールであることをもちろん了解している。
もし、ゲームを現実であると了解していたならば、座り込みボタンをいじるのではなく剣を携え戦いに挑むか、震えて寝ることでしょう。
そして、ルールとは形式化されてなければならない。
形式化とは形つまり内容は問わないというわけです。
法律しかり、数学しかりだ。
法律的内容や数学的内容とは、形式の一表現でしかない。
まあ、とりあえず形式化とはある前提を独断的に決めた体系としておこう。
ゲームの前提は独断的である。例えば攻撃すると特定のヒットポイントが減ったり、ジョイコンを倒すと動くなどは何らかの根拠があってそうなってるのではなく独断的に決定している。
そう、攻撃してもヒットポイントが減らないゲームも現にある。つまりゲームの前提は開発の独断と恣意性に委ねられる。
つまりゲームは形式化された世界だ。
世界とは現実と虚構に別れる。
現実がもし崩れ去ったならば、つまり大きな変更を被ったならば人は二つの選択肢がある。現実を受け入れるか。あるいは拒否するか。
そして、現実には根拠がある、それは厳密には独断的で恣意的だが真実として扱われるつまり事実がある、それは理論や経験や権威などである。
事実に大事のは信頼である。
我々は事実だから信頼しているのではない、信頼しているのだから事実なのである。
そして、話しは『なろう系』特に異世界転生モノに行こう。
もし、突如信頼のおけない存在が信頼している世界の法則を全て壊したら?
自我崩壊は避けられないだろう。
縁のない神に転生させられるとはそう言うことである。
しかし、大抵の主人公は、自我崩壊しない、なぜなら。
神より上の次元つまり読者を代理しているからだ。
文字の上の神は我々に心理的影響しか与えなれない。つまり主観の世界の一存在者なのだ。
さて、自己投影とはナニかを自己であるという虚構を仮定すなわちあたかも真実の如く振る舞う事である。
人は慣れると信頼する。との原則を立てると。
自己投影を信頼してしまう、なぜなら慣れてしまうからだ。
信頼した虚構はやがて共感という形で現実に侵犯する。
オタクはなぜ迫害されてもオタクであり続けるのか?
それは慣れ親しんだ現実を放棄できないかである。
ここで、『なろう系』主人公はあたかもメタレベルで物事をみているかのように振る舞う。ことを考えよう
つまり、彼らは自分が虚構的存在であると了解している。
彼らは世界を信頼していない。
なぜなら自己→主人公→自己と投影しているかである。
主人公は仮面でありアバターなのだ。
つまり、我々はゲームを虚構的と了解している。代理たる主人公も故に自分の世界であるかのように振る舞う世界を虚構的と了解している。
故に『なろう系』はゲーム的なのだ。
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