異世界転生モノはいかにしてゲーム的か

坂西警護

哲学的前提


 物語とは、基本的に虚構です。しかし特異な虚構であり、なぜならなのです。


 正確には仮に真実として虚構なのである。


 さて、この世界は虚構だらけです。


 まず社会なるものはありません。また概念もありません。あるのは知覚と知性であります。


 知覚を受け取り知性(悟性も含む)が加工します。


 そして知覚は知覚できます。しかし知性は知覚ではないので知覚できず真の知性つまり、生の知性は知覚できません。

 

 なので、加工された知覚から推測するしかないの。


 さてここで推測とは真実を確かめるものではないことを提言します。


 なぜなら、真実か否かとは比べなければ真実かわかりませんが、比べるものが『真実』そのものなので自己言及しています。


 つまり、真実を知るために真実を知らなければならないのです。


 このため知覚つまり、内的にしろ外的にしろ感覚以外は真実性が損なわれるというわけなのです。


 質問をしましょう。目の前の電子機器をいかなる前提条件をなしに真実性を証明してください。


 目の前にある。とかが、証明材料でしょう。しかし目の前にないモノの存在証明は、どのようにするのか。


 そこでは知覚には頼れません。なので推測しかありません。


 知覚はその定義からして、あるいは直感的に存在します。逆に知覚が存在しないというのはどのように理解したらいいのでしょう。


 しかし、推測は違います。推測は知覚の外側の出来事を考えるものです。


 自分が今現在、知覚していることを推測はできない。


 今赤が見えると推測するとは、私にはおかしな言葉の使い方や感覚に見えます。


 先ほどの話に戻ろう。知覚と知性のみが在るつまり。真実であると。


 しかし、推測は知覚ではないモノを対象とする。そして知性の真実は在るのだか知ることはできない。


 さて、その推測の羅列こそが物語なのだ。


 つまり、物理学とは数学という推測方法により物質の物語。


 付言すれば、脳科学とは神経と電気信号と特定の物質がどのような振る舞いを見せるかの物語です。


 様々なデータを推測して、あるいは共感というほどに習慣化させれた推測にて、我々は外界を考えるのです。


 虚構と現実の区別は質的ではなく量的な区別である。つまりはグラデーションなのだ。


 我々は便宜上あるいは感覚的に現実と虚構を区別している。


 


 

 


 

 

 


 


 

 


 

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