第3話【フェリシテ】

 訓練所内にある修練場では、長い髪を束ねた人間が、ひとりで剣の訓練をしていた。訓練用の藁が、斬撃のたびに左右へと動く。


 動きは、俊敏だ。ただ、束ねた髪が動くたびに左右に流れていくのに目が奪われてしまう。


 雨が振りそうな曇天の中でも、明るい紫色の髪が俺を引き寄せるように動いていた。

 

 日差しもないのに艷やかに輝いているのを見ていると不思議な気持ちが湧き上がる。


「ちょ、と。待ってよ。リシャール。声をかける前に聞いてほしい」


 俺は、自分の肩にアルウィンの手があることに気付いた。目を奪われるままに歩んでいたようで修練場に、一歩踏み出していた。


 アルウィンに、入口の壁の側まで引き寄せられた。それでも、視界には訓練を続ける紫の髪の女がいた。


「あの女、昨日の? アルウィンの部屋から出てきたやつか?」


「変な言い方しないでね。止めて正解だったよ。一応、そうだけど着任の挨拶をされただけだよ。彼女の名前は、フェリシテ・ベンネヴッツ」


 アルウィンは、上目遣いに蠱惑的な笑みを浮かべた。


 俺の心臓が止まった。瞬間、持ち上げられたようにはねる。


 アルウィンに感じる違和感のせいだろうか? 何かを俺に期待しているような……


「『ベンネヴッツ』分かるかい、リシャール?」


「ん……。ベンネヴッツ侯爵の御令嬢かッ!?」


 アルウィンは、俺の口をふさいだ。慌てたようすで、声が大きいと注意される。


 ベンネヴッツ侯爵とは、ターブルロンド帝国の重臣であり、ロンド王国との戦いで名を馳せた英雄。


 今のロンド王国は、ターブルロンド帝国領であるが。それを成し遂げた一番の功労者だ。


 それほどの働きをしても、皇帝の血縁ではないため、侯爵の地位に甘んじている。


 しかし、絶対的な権力を持つ名家の中の名家。


 若い公爵や皇帝の縁戚くらいでは、相手にならないほどの威光を放っている。


 ただ、現在の当主はかなりの潔癖症で有名だ。子孫を作るために、一度だけ結婚をし、子を儲けたが。


 すぐに離婚し、子供の教育も他家の乳母に任せていたという。何でも、自分以外の人間は不潔なのだそうだ。


 ルグラン家に来た客が、あれで子をなせたのは奇跡だと笑っていたほどだ。


「その預けられたガキってのが、彼女か?」


 俺は、慎重に壁越しから、フェリシテを見た。気の強そうな顔だ。


 恐ろしく整った非の打ち所のない美。愛想の無さは、血筋ゆえのものだろう。


 皇帝の紫龍と呼ばれたベンネヴッツ家の娘。これが、俺の副官になるのだそうだ。


(太陽のなかの太陽か……)


「早速、不敬だね。そういう言動を注意しようと思ってね。彼女は、君の副官だよ。でも、ただの副官じゃないからね。加虐心に火をつけないように」


 アルウィンは、俺を見て鼻で笑った。お見通しというわけだ。


 疑問が残る。他家に預けるほど愛情を持てなかったとはいえ、一人娘だ。


 それを、何処かの家に嫁がせもしない。


 それどころか騎士にして、こんな国境近くの砦に着任させるのは、なぜだろう。


 ベンネヴッツ家の名前と強権があれば、後方部隊に送ることなど造作もないことであろう。


 ここは、イストワール王国に対する最前線の一つなのだ。戦いになれば、戦死の可能性は高い。


「なんで、騎士なんかにしたんだ。皇帝家の嫁にでもすればいいだろ?」


 アルウィンは、口を歪めた。その顔は、嘲笑の色を帯びているように見える。


「ベンネヴッツ候には、男の子がいないからかな。彼は、龍族みたいに潔癖症だからね。ベンネヴッツ候の妻になる人が耐えられないでしょ? 僕なら嫌だな。側室泣かせでもあるからね。あのお方は……。だから、あの娘を跡継ぎにさせるつもりだよ。そのための経験なのかな?」


 アルウィンは、心底嫌そうな顔をする。長く続く家柄にはよくある話だ。


 金欲、物欲に満たされた人間には、特に。


 平民や貧民には、縁のない悩みだろう。


 子孫繁栄を願う貴族が、子孫に恵まれない。一方で、貧しいにもかかわらず子供に恵まれる平民。


 大欲も叶えば、人間を無気力にする。アルウィンの親父さんに教えてもらったことだった。


 ベンネヴッツ侯爵とは、まさにそれなのだろう。


「それなら養子でも貰えばいいだろ。形式的にでも。それか、あの娘に婿を取らせるとか」


「どうだろうね。こればかりは、ベンネヴッツ候がお決めになることだよ。フェリシテは、哀れな子だと思わない?」


 俺は、強く否定した。


 サーカス団に売りつけられた人形たちに比べれば。いや、比較にもならない。


 アルウィンも、貴族の御曹司だ。見世物ピエロの気持ちなど、分かりはしないだろう。


「そうかい? 君なら否定するかぁ。フェリシテは、綺麗だろ? ほらね。カトレアの花みたいだ。なのに、箱庭の花壇の中に飾ってもらえないなんてさ」


 アルウィンは、口調に似合わない冷徹な目でお貴族様の悲哀を語る。


 この目だ。ときおり見せる背筋が寒くなるような冷たい視線。


「そう思うなら、お前の側近にしてやれよ。わざわざ、廃民の俺の副官にするか? 言ってることが、矛盾してるだろ?」


「あははっ。さあ、ここで見ててあげるから上手くやりなよ。リシャール団長」


 アルウィンは、弾むように声を立てて笑う。明らかに、フェリシテの悲運を嘲笑っているようだ。


 そうに違いない。


「アルウィン、何を企んでやがる。御令嬢に怪我でもさせたら、笑っていられんぞ? 首切りかもな。ルグラン伯爵様?」


 ルグラン家など、ベンネヴッツ家に比べれば、曇の日の太陽だ。俺は、警告の意も込めて言った。


「僕は、子爵だよ。ルグラン地方を治めるのは、偉大なる父上。ルグラン伯爵さ?」


 アルウィンは、演劇のように白い指先を天に向けて仰々しく言い放った。


 その手を、懐に入れると真っ白な光沢を放つ手紙を取り出す。


 手紙は、蠟の封印が解かれていた。中身の紙を俺に手渡してくる。


(なんだこれ……)


「ね、側室泣かせでしょ? ベンネヴッツ候の手紙はそんなもんだよ。単文。紙が勿体ないね?」


 その手紙には、こう書かれていた。


 【厳しくしてやれ】


 これが、一人娘の、フェリシテへの思いなのだろう。誰の部下になっても、気にすることはない。


「でもな。こういうやつに限って、実際に怪我をさせたら態度が豹変するんじゃないか。娘のためではなく、自分の名誉? のために」


 アルウィンは、首を横に振る。


「でも、相手は貴族のお嬢様だよ。加虐は捨ててよ。訓練で怪我をさせるのはいいけど。この違いわかるかな? さあ、リシャール。行ってきなよ。最初が肝心だよ」


 アルウィンに背中を押されるように、俺は修練場に足を踏み出した。


 フェリシテの動きを見る。先程から休息をしてない。疲れ知らずのようだ。


(いい動きだ。御令嬢にしておくのは勿体ない。最初が肝心か……)


 俺は、武器箱に立てかけられた木剣を手に持った。


 第一章第3話【フェリシテ】完。 

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