少年の病について
二、三回ほど咳き込むと、気持ち悪いほど生暖かい春の空気が、風に乗ってどこかに跳んで逝った。春というものはまことに厄介な季節だと思う。孤独と病人には、ちょっときつい季節だ。
この肺はあと何分で駄目になってしまうのだろう。咳は止まらないし、喉に絡む痰も既に桜色に染まっている。くたばるのは時間の問題だろう。一人であの世に行くのか、それだけが後悔である。
「信じ難いことではありますが、貴方の肺の血管は————」
血管の七割は枝のように硬化しているらしい。医者の見解として、かなりの速さで硬化をしているらしい。この肺に抱えた桜の木の開花時期はもうあと数日、あとどれだけ持つか、とも言われた。そして、即日入院することになった。それらは自分自身にとって、あまりに唐突な宣告だった。
気休め程度の入院だと思っていたのに、部屋に着くなりあっという間に辺りを囲まれ、看護師が手際良く点滴やら管やらを繋ぎ始め、あっという間に「病人」のような見た目になってしまった。そこまで体調が悪かったわけではないのに、何故こんな痛々しい見た目でベッドの上で横たわっていなければならないのだ。さらにこの点滴の液は、木をも枯れさせることが出来る強い除草剤らしい。パックの名前をこっそり携帯で調べたらそう書いてあった。こんなもの身体に入れて良いわけないはずだ。いますぐここから出なければならない。どこかから逃げ出さなければならない。病院を探検するという体で逃げ道を探すことにした。
それから何日か過ごして気づいたことは、寝る前の見回りのときに部屋の鍵が外され、見回り担当の看護師も少ないことである。今日の昼間は静かに過ごし、夜になったら隙を見つけて一気に外に飛び出す。今日からまた自由が始まる。そう高鳴る胸に少しの違和感を抱えていたが、それすらも気に留めないほど興奮していた。
消灯時間の少し前には布団に潜り、息を潜める。あと五分もすれば見回りの看護師が鍵を開けて病室に入ってくるだろう。目を瞑り、耳を澄まして、一歩、づつ、近、づいて、来る、来、る————。
はっと意識を取り戻したとき、そこは病室でも、病院の中庭でもなかった。家の近所でも、学校でもなかった。ただただ青い空と、まばらに植えられた桜だけの空間だった。何が何だか分からなかったが目を凝らしてみると、桜の木の下にうっすらと墓石のようなものが見える。ここはどこなのだろう。
「やぁ、ご苦労さん。びっくりしたかい」
どこから出てきたのか分からないが、白い袈裟を着た知らないおじさんがいきなり話しかけてきた。
「ここはどこですか」
と素直に尋ねてみた。するとおじさんは
「ここは君と同じ病気になった子たちが来るところだよ。君は逃げる前に死んだのだ。ほれ、後ろの桜の木をみてみなさい」
振り返って見てみると、そこにはとても大きな満開の桜の木が聳え立っていた。
「あの桜の木がなんだっていうんですか」
おじさんはけたけた笑ったあと、こう続けた。
「君の肺だよ。君の肺にあった桜さ。こんなに立派な桜、久しぶりに見たよ。満開で綺麗だし、今は風が弱いから君の姿もはっきり見える」
なんだか、すごく不気味な言葉だと思った。風が吹いたら、見えなくなってしまうのか。それすらも怖くて訊くことができなかった。
「お、風が吹くぞ、大きい風だ」
おじさんがそう声を発したあと、ぶわぁっ、と枝を煽るような風が吹いた。僕の桜は一気に枝を揺らし、見事な花吹雪が舞い上がる。思わず感動して立ち尽くしていたら、おじさんがお経のような何かを唱え始めた。
ああ、僕は本当に死んだんだ。もうどこにも帰ることはできないんだ。
口を開けるとさらに花弁が飛び出し、それにつれてだんだん頭が回らなくなってきた気がする。呼吸をするたびに僕の体が桜そのものになっていくのが、嫌ではなかった。涙も、声も、影も、僕の総てが桜になった。僕は、桜に、なった。
「素晴らしかったなあ。儚い彼はとても強かだった。君の向かう世界はきっと、ここより暖かい場所だ。」
僧侶は彼の墓に卒塔婆を立て、軽く手を振って風に消えていった。下界の墓の上には、綺麗な桜がひっそりと揺れていたそうな。
「ここは君と同じ病気になった子たちが来るところだよ。君は逃げる前に死んだのだ。ほれ、後ろの桜の木をみてみなさい」
振り返って見てみると、そこにはとても大きな満開の桜の木が聳え立っていた。
「あの桜の木がなんだっていうんですか」
おじさんはけたけた笑ったあと、こう続けた。
「君の肺だよ。君の肺にあった桜さ。こんなに立派な桜、久しぶりに見たよ。満開で綺麗だし、今は風が弱いから君の姿もはっきり見える」
なんだか、すごく不気味な言葉だと思った。風が吹いたら、見えなくなってしまうのか。それすらも怖くて訊くことができなかった。
「お、風が吹くぞ、大きい風だ」
おじさんがそう声を発したあと、ぶわぁっ、と枝を煽るような風が吹いた。僕の桜は一気に枝を揺らし、見事な花吹雪が舞い上がる。思わず感動して立ち尽くしていたら、おじさんがお経のような何かを唱え始めた。
ああ、僕は本当に死んだんだ。もうどこにも帰ることはできないんだ。
口を開けるとさらに花弁が飛び出し、それにつれてだんだん頭が回らなくなってきた気がする。呼吸をするたびに僕の体が桜そのものになっていくのが、嫌ではなかった。涙も、声も、影も、僕の総てが桜になった。僕は、桜に、なった。
「素晴らしかったなあ。儚い彼はとても強かだった。君の向かう世界はきっと、ここより暖かい場所だ。」
僧侶は彼の墓に卒塔婆を立て、軽く手を振って風に消えていった。下界の墓の上には、綺麗な桜がひっそりと揺れていたそうな。
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