祖父について

 とうの昔に、枯れた樹がありました。その樹が花を咲かせていたことを知る人は、もう一人もいないことでしょう。その樹が昔、何を咲かせていたのかを祖父に訊いても、「神か仏にしかわからぬ」と一蹴されてしまいまして、まだ高校生だった彼は取り敢えず、この樹を神仏のように考えていました。毎日その樹がある場所に通って、家からこっそり、父の日本酒をボトルに入れて持っていき、その樹の根のところにほんの少しだけ垂らし、神酒を供える代わりにしていました。たまに少し彼も口に含め、「まだ私には早い嗜好品だな」と頬を赤くして、少し地べたに座り、熱りが抜けてから帰るのでした。

 彼は進学を機に上京することになりまして、その樹のところに通うことは少なくともしばらくはできないことに、彼はとても苦しい気持ちを抱き、その感情を持っていくことに決めて、電車に乗って行ってしまいました。


 彼は大学で思想を学んでいましたが、学ぶにつれて自分と神との区別がつかなくなってしまったり、別のときは他人の思想に傾倒して、生活を圧迫する程に散財してしまったりと、そんな生活を長くしていては、心も身体もぼろぼろになってしまい、学業のほうも疎かになり、また実家に戻ることになりました。実家に戻ってからも、死んだも同然の身で一日のほとんどを布団の上で過ごしていました。ときどき窓を開けて換気をするときに、季節を感じさせる風を肺に取り込み、それによって気管支からのびる枝に彩りがつけられることで、生きていることを実感していました。


 ある日、彼の祖父が亡くなりまして、葬式やその他諸々のことをするために、彼は久しぶりに外に出ることになりました。そこはかとなく寂しさを感じて、涙を数滴こぼしたとき、彼はあの樹のことを思い出したのです。

 祖父に訊いてもこたえてもらえなかったあの樹のこと、涙と同じくらいの日本酒を垂らして崇めていたあの樹のことが、一瞬はっきりとその脳裏に浮かんだのです。彼は用事が終わると、祖父がよく嗜んでいた日本酒の瓶と、祖父からもらった猪口を持ってその樹のところへ急いで向かいました。


 彼は驚嘆しました。永遠に、花も咲くことのないはずの枯れた樹が、満開の桜の花を咲かせているではありませんか!彼はその感動的な風景のあまりに腰を抜かして、根の上に座り込んでしまいました。

 息をのむほどに美しいその桜を、彼はただ見上げることしかできません。その空気を吸うと、それを取り込んだ肺が同じように桜を咲かせて、横隔膜を圧迫して、より立ち上がることを困難にします。

そんな彼の肩に、誰かが手を置きました。彼が振り向くと亡くなったはずの祖父が、優しい微笑を浮かべていました。祖父は「迷惑をかけてごめんな。」とつぶやき、彼の隣に腰を下ろしました。祖父は続けて彼に話しかけました。


「この樹は、僕のおじいさんが植えたらしいんだ、これだけ立派だから、本当かどう   かはわからない。僕もよくこの樹にお世話になった。だかれども、まさかお前も通っていたとは、僕も驚いたよ。お前がこうやって少し外に出られたのも、この樹のおかげだな。」

喜びを穏やかな口調で表現する祖父の頬がほんのりと赤くなっています。

 「お前のその心を救ってくれるのは、きっとこの樹だと思っている。僕もそれなりの年齢を生きてきたから、挫折した経験もあるし、後悔したことだって何度もある。その度に、僕はこの樹のところで酒に酔っぱらうことで気を紛らわせていた。」

 そっと祖父は立ち上がり、僕を立ち上がらせるために手を貸してくれた。

 「お前は思想について僕より詳しいだろうし、それゆえにお前は今とても苦しいのかもしれない。そして、僕とお前の共通点は人間関係が下手だということだ。」

 確かに、祖父もそういうところがあった気がすると、彼は恥ずかしそうに笑い、祖父もつられて笑いました。そのあと祖父が、彼の持っていた日本酒に気づいて「飲もうではないか」と提案し、二人で陽気に花見をしました。語り合って、歌って、踊って過ごしました。

 

 はっとして周りを見るともう空には月がのぼっていました。眠ってしまっていたことに気づくと、彼は慌てて樹と祖父を探しました。遠くのほうに、大きな満開の桜の樹と、向かい合って立っている祖父が見えました。暗闇の中にほのかに浮かぶ景色は、彼を夢見心地にさせました。

 祖父は寂しそうに彼を見つめています。彼は、祖父がもういなくなってしまうことを察しました。

 「ま た お い で ——。」

声は聞こえなくても、たしかに祖父はそう言って、風に舞っていきました。


 彼は布団の上で朝を迎えていました。涙で濡れた枕カバーを干して、祖父の仏壇に挨拶をして、外へ出かけていきました。祖父のつんとした写真のそばに、祖父の猪口と桜の枝が飾ってありました。

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