桜の彼について

 紙の上でペンが滑らない。イップスであろうか。あまりにむしゃくしゃして、さっきまでリンクだったそれを礫にして窓に向かって投げつける。もう入らないよと言わんばかりのごみ箱が三つ、瀉血したものを保管した小瓶が十数個。カレンダーと時計はない。カレンダーは、高校のときから部屋に入れていない。真っ白なマスに耐えられなかった。時計もその頃からだっただろうか、追ってくるものが多すぎた当時、時間が一番負担だったのかもしれない。そんな生活を何年も続けているから、ふらっと外に出る気にもなる理由すらなかった。

 いくら紙に世界を創ってもいい評価を貰えないから、最近は小説サイトだとかいうものに投稿をするようになった。やはりそこでも反応があまりなかった。欲しい才能に限って、神様だとかいうナニモノは与えてくれない。

 

 遮光カーテンの隙間から射し込もうとする日光を、自分の闇で埋めて拒んでいた毎日だった。それなのに気温や室温はぬるぬると入り込んで、季節感だとかいう余計な便りを運んでくる。小説サイトも、春だからだろうけど「青春」だとか「学園モノ」のようなテーマの作品が上位に蔓延っていて、地獄の味がする学生時代を過ごしてきた私には、それらの作品が何を伝えたいのかが全く理解ができそうもなかった。階段の踊り場でイイ感じになるなんて、学校を何だと思っているんだ、盛り場じゃないんだぞとステレオタイプなことを思ったり、学校で一番モテる王子様(笑)に目をつけられてなんて話も、気色が悪くて見るに堪えられなかった。

でも、一回だけ。私は地獄の中で恋をしたことがある。告白どころか会話も交わさず、名前も知らなかった。でも、確かにあれは「恋」というものに分類できると思う。


 彼はよく、中庭の木の下のベンチで目を瞑り、すらっとした足を組んで浅く腰かけていた。夏でも冬でも、彼を見かけるときはそこのベンチにいた。たまに女子が話しかけていて、きっと告白か何かをして振られたのか、泣きながら走って教室に行ってしまうという場面を遠くから見ることもあった。彼はどんな女の子が来ても泰然な態度で、どこかに行ってしまった女の子が見えなくなるまで、視線は女の子に向けていた。見えなくなるとスウッと深呼吸をしてから、また上下の瞼を合わせて空を仰ぐ。そんな男だった。

 

 卒業式の締めのあいさつが終わり、私はそそくさと教室に戻って、家に逃げる準備をしていた。卒業証書がはいった筒と、寄せ書きのない卒業アルバムを淡々とバッグに入れる。よし、さっさと帰ってしまおう。渡り廊下を歩いているとき、ひとつだけ強い風が吹いた。吃驚して体を小さくかがめたとき、中庭のあの木から桜の花弁が舞い散って、風に身を任せて飛んでいくのがうっすらと見えた。そこにやはり彼はいた。ボタンがひとつもない学ランを肩に引っ掛け、ベンチの前で立っていた。なんだか切なそうな顔をして、桜の木を見上げていた。あまりにもそれが感動的で、見入ってしまった。すると彼は視線に気づいたのか、私のほうを向いて軽く手を振ってくれた。そして彼は儚い笑顔をした。今にも泣きそうな顔で微笑んだ。


 気が付くと彼はもうそこにいなかった。青い空はオレンジ色に染まりかけていて、時計を見ると17時を目指して進んでいる。もう帰ろう。空気のように軽いバッグと、いろんな感情で溢れかえっている重い心を抱えて急いで家に帰った。


 彼の表情が忘れられない。今もその時間で生きていたいから、私はずっとこのままでいたい。私はずっとあのときの私でいる。なにも変わっていない。瀉血した血をインクにして、原稿用紙に彼のことを毎日、毎時間、毎分、毎秒、綴り続けていた。カーテンを開けると、眩しい日差しとピンク色の絨毯が敷かれたアスファルトが、窓ガラスを通して瞳に入り、こっちへおいでと誘う。私は窓を開けて満面の笑顔で空を仰いで、身を投げ出した。3月のことでした。

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