第2話黒いワンピースの女
黒いワンピースに大粒の真珠のネックレスをした女は、若者向け雑誌のモデルのような愛くるしい顔をしていた。
「この人と二人だけで話しをするわ」
彼女が大男を一瞥すると、一緒にいた男は苦虫を噛み潰したような表情をしてからいなくなった。
「さっきの男から、正しい言語の指導を受けるように言われて来たんだ」
「あなたが、AIタクシーで相手の教えに従わなかったからよ」
室内にやっと聴こえるくらいの、小さな音でクラシック音楽が優雅に流れている。
「旅先のF県に独りで行こうとしているだけなんだ。早くそんな指導なんて終わらせてくれよ」
「F県へ行くなら、私の車で送るわ。正しい言語の指導は、走行中にあなたが受けなさい」
二人で外へ出ると、建物の入り口の前にさっきまでなかった車が停まっていた。それは一目で、緑色のユーノスロードスターだとわかる。
女が車に乗り込み、私が後に続くと音もなくユーノスロードスターは、加速していった。
「静かでしょうこの車。最新技術で、内部装置まで防音装置が施されているのよ」
「何も音がしないから、自動車って感じがしないよ」
私は助手席から、遠ざかっていく樹々を見て、それらが巨大なオブジェのように思えた。
「ではさっき言った指導を始めましょう。私の後に続いて同じ言葉を発音するのよ」
「わかったよ。正しい言語の指導のことだろ。」
それから女は、様々な将棋用語を口にした。そして私は、それに従って後から彼女と同じ言葉を言ったのだ。
また最初は「二歩は禁じ手」や「王手飛車取り」と彼女は言っていたが、次第に「4九金
そうやって、私は30分おきに休憩を挟みながら、多くの将棋用語を知っていた。そして言葉だけでなく、女はダッシュボードにある小型スクリーンで、駒の動き方も説明した。
私は、分からない部分をその都度質問したので、棋譜についての言葉もどのような使われ方がするのか、理解することができた。でもどれだけ、詳しくなっても何のために、それをやらされているのか理解できないままだったのだ。
「何のためにこんな言葉の教育を受けさせているんだ!将棋の言語に詳しくなっても自分にとって意味がないぞ」
「あなたはさっきのAIタクシーに乗っていた時に、将棋の言葉まで覚えて詰将棋に正解する必要があったのよ」
「車のナンバーを知るためにか?この車でF県に行けるなら、もうそんな必要はないだろ!」
女はAIタクシーを降りてからも、車のナンバーを知らないままでいると、やがてAIタクシーが私を
「じゃあ、今からどうすれば、車のナンバーが分かるようになるんだ。もう詰将棋なんてやりたくないぞ」
「詰将棋が嫌なら、次の一手の問題にしましょう。あなたにとって大変だと思うけど、それしか方法はないのよ」
女は、右手で軽快にハンドルを扱いながら、左手でA4用紙を手渡してきたのだ。そこには、対局途中の将棋の図面が載っていた。
私はあれこれと頭の中で駒を動かし、十分ほど経ってから答えを見出した。その間、女は運転に集中していてお互いに、何も会話がなかったのだ。
「答えが分かったら、どうすればいいんだ?」
「その問題用紙の右隅に、解答を記入すればいいわ」
彼女は、私の見ていた用紙の上に高級そうな黒い万年筆を置いた。
それから私は、4三馬と指定された場所に万年筆で書いて、その用紙を女に手渡した。彼女はちらりと、答えを見てからそれをダッシュボードにあるカメラに写したのだ。
「正解だったのか?」
「もう少し後で、結果がモニター映るから待ちましょう」
「君は、答えを知らされていないのか?」
「ええ、私には分からないわ。できることは限られているのよ」
やがてモニターに4三馬が、正解であるという表示が出た。小さな音で、ファンファーレが鳴りだし祝福しているようだった。
「おめでとう」
女は私を見て、モニターに映っている車のナンバーをメモするように指示した。
「これで、AIタクシーに轢き殺されなくて済むんだな」
「そうよ。その番号をAIタクシー会社に、電話で伝えなさい」
「面倒くさいな。正解したんだから、あんたやってくれないか」
私は、やっていることの何もかもが、馬鹿らしく思えてきた。
「本人がやらないと、結果を出したことにならないのよ」
「仕方ないな」
そして言われた通りに、AIタクシー会社に電話をかけたが、なかなか繋がることはなかった。10回目でやっと、電話が通じて私は車のナンバーを言った。
「正解です。正解です。正解です」
三度機会音声で、それが繰り返されると電話が切れ、女は車を減速させた。やがて狭い路肩へ停車した車は、彼女がエンジンをかけても動かなくなってしまった。
「どうしたんだよ」
「あなたは、ある団体を怒らせてしまったようね」
「だから車が動かないのか?」
「そうよ。巨大権力を持ち、何だってできる団体があるのよ」
「何の団体だ?何か問題を起こした覚えはないぞ!」
女は、AIタクシーを管理する、いくつかのIT企業の一つがその団体だと説明した。そしてそこが、車のナンバーを知った者に、F県へ入られると業績が大きく落ちると教えてくれた。
「よく分からないな。そんなことで業績が落ちる企業があるなんて」
「あなたに分からなくても、AIタクシーを途中で降りた人間がいるだけで、売上減になる企業が多いの」
「次の一手に正解したことも、相手は気に入らないっていうのか?」
「そうよ。あの問題に正解する人なんて、めったにいないし車のナンバーを知る人間だけが、相手を倒すチャンスができるの」
私は次第にくすぶるような怒りが増大していった。
「そんな相手なら、倒してやりたいな。ところで、将棋の言語の指導なんて必要なかったぞ。そんなことしなくても、正解できたはずだ」
「これから、倒すなんて考えないで逃げることを選びなさい。相手はこれまでの言語指導で、あなたにいろんなことを諦めさせようとしていたのよ」
「でもあんただって、俺に指導してきたんだから、そいつらの関係者なんだろ!」
女はそれに答えず、窓を半分開けるとそのままそこで、車を乗り捨てると言って外へ出たのだ。女の後を追うようにして車を降りると、太陽のよく照り輝く晴天なのに大粒の雨が、横殴りに降り周囲を水浸しにしていた。
「おい、なんで晴れた日にこんなにも雨が降っているんだ?」
「相手は何だってできる団体だって教えたでしょ。あなたに対して、天気だって好き勝手に操作できるのよ」
私は女の一言に衝撃を受け、言葉を失くした病人のように沈黙した。
やがて傘を差しだした彼女から、それを受け取り雨から身を防ぐと混乱した思考が、治まり落ち着きを取り戻したのだ。
「いつの間に、世の中が一変して、そんな団体の支配下に置かれたんだ!」
「あなたが、AIタクシーに乗っている間に世界が変わったのよ」
私は自分の血の気が引いていくのを感じた。そしてそんな状態で、F県に行っても無意味に思えた。だが女の話を聞いても、どこかへ逃げようとする気にはならなかったのだ。
「逃げる以外に、俺ができることはあるのか?」
「私が相手の力を説明したのに、そんなことを言うなんて覚悟があるのね」
女は、それから私が働いていたレストランについて話した。それによると、相手となった団体は、レストランが営業利益上、妨げとなってくると予想したのだった。そして店を潰そうとしたのだ。
「あの店にいたあなた以外の従業員は、皆が身の安全と引き替えに本州から出ていくことを迫られたのよ」
「それで、全員が納得したのか?」
「最初は拒否していた人もいたけど、今では店長以外の全員が本州からいなくなってしまったのよ」
女は慣れた口調で、報告書を読み上げるように言った。
「店長はどうしているんだ」
「あの人は、あなたに今回の旅行券をあげたことを知られ、相手の怒りを買ったの」
私は嫌な予感がしたが、それ以上の悪い状態に店長はされていた。
女の知るところによると、彼は本州から出ていくことに抵抗したため、相手団体に捕らえられビルの一室に監禁されているとのことだった。
「どこにあるんだそのビルは!」
「都内のH駅近くよ」
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