天窓 3

 しつけのなされていない犬が駆け回る彼の家に呼ばれた日から数日の間、彼は学校を休んでいました。

 だから、彼に再会したのは週が明けた月曜日のことでした。


 教室に入るなり、彼はわたしに消しゴムを投げつけてきました。咄嗟に避けてしまったことが、さらに彼の怒りを増幅させたのかもしれません。

 筆箱、コンパス、上靴、と手当たり次第に物を投げつけた彼は、とうとうわたしの前に立って、腕を横薙ぎに振るいました。

 彼の拳がわたしの肩に当たりました。それほど強い力ではなかったので、わたしはただ困惑して立ち尽くしていました。

 けれど彼の暴力は、周囲の子たちを騒がせました。誰かがぱっと教室から駆け出して行くのが見えました。おそらく担任教師を呼びに行ったのでしょう。

「おまえ」男の子がわたしを睨み付けます。「チクったやろ」

 なにを誰に、と考えてから、犬のことだ、と気がつきました。

 彼はあの日、犬を天井裏に閉じ込めたことをきつく叱られたに違いありません。それを、わたしのせいだと怒っているのです。

 確かにドライバーの青年に犬が天井裏にいることは伝えました。けれど彼が閉じ込めたと言った記憶はありません。なによりも、わたしは一応謝罪をしてから、あの家をあとにしたのです。

 怒られる道理はありませんでした。

 けれど彼は、わたしの告げ口がいかに卑怯かを怒鳴り散らしました。

 そうこうするうちに教師が来て、彼はどこかへ連れられて行きました。そして授業が始まる直前まで戻っては来ませんでした。


 以来、彼と仲直りをすることはありませんでした。

 しばらくして、彼がクラスメイトに「仔犬が死んだ」と話しているのを耳にしました。お母さん犬が噛み殺してしまったと語る彼は、なぜか薄く笑っているようでした。

 そのまま五年生になりクラスが別れました。彼は廊下ですれ違うたびに、わたしを殴ります。正しくは、殴るまねをするのです。肌に触れるかどうかの力加減で拳を服に押し当ててきます。

 ときどきそれを目撃した子が先生に言いつけて、彼は呼び出しを受けているようでした。一度だけ、説教されている彼の背中を見かけました。

 その年頃の男の子にしてはひどく小さく、細い体でした。

 小学校を卒業し中学が別れると、もう彼の噂すら聞こえてこなくなりました。

 そのうち彼のことも、あの家の犬たちのことも、忘れていました。


 そして今、大人になったわたしは友人の家自慢を聞いていました。

 家を一周してリビングに戻ってきた友人は「今度、遊びに来てな」と楽しそうに言います。

 わたしは「うん」と頷いてから「あの天窓さ」と切り出します。

「なにが、見える?」

「え、なんやろ。星かな? 北向きやから月は厳しいかもしれん。あ、でも望遠鏡ないから天体観測には向かんかも」

「じゃあ、新築祝いに天体望遠鏡贈ろうか」

「えぇ、別のモンがいいわぁ」

 はは、と笑う友人の声を聞きながら、わたしはある事実に気がついていました。

 ──あの子供部屋の、天窓です。

 彼はあそこから見えるのは山だと言いました。けれどあの方角にある山はどれも低く、二階の窓ならばまだしも、空を仰ぐ天窓の邪魔をするはずがないのです。

 そしてあの子供部屋の窓は、ハイベッドと本棚に隠されていました。窓ガラス越しに暗く、鎧戸が閉められていたのです。

 彼にとっての窓は、あの天窓だけだったのかもしれません。

 そして彼自身もあの子供部屋が、あの家が、しつけのなされていない犬たちや自力では開けられない鉄の門が、おかしいことに気づいていたのかもしれません。

 気づいていて、誰かに気づいてほしくて、わたしを招いたのだとしたら、彼のあの怒りも当然のことのように思えました。

 わたしは彼の救いを求める行動に気づけず、彼をより追い込んだのかもしれないのです。


 しばらくして、彼の家の前を通ってみたのですが、見当たりませんでした。彼の家が建っていたはずの場所はごく普通の民家になっていて、もはやどの家が彼の家の跡地に建てられているのかすらわからない有様でした。

 監視カメラも厳めしい鉄の門もない住宅地は静まりかえり、犬の声ひとつ聞こえてきません。

 彼は犬たちは「どうせいつかは、みんな、天井裏に追いやられてしまう」と言っていました。それは一体どういう意味で、犬たちがどうなったのか、今となっては知る術がないのです。

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