天窓 2
その家を駆け回る犬たちは、みんな家族でした。お父さん犬、その子供たちが四頭だか五頭。てんで勝手に駆け回り、ドライバーの青年に吠えかかり、飼い主であるはずの男の子にまで牙を剥くのです。
犬たちは、しつけをされていませんでした。
「抱っことか、しないの?」犬たちのあまりの傍若無人さに面食らいながら、彼に問います。「散歩とか、どうやって行くの?」
「散歩? なんで?」彼は不思議そうにわたしを見詰めました。「どうせ、どれかひとつしか一緒に行けんのに?」
彼の言う「ひとつ」がなにを示すのか、そのときのわたしにはわかりませんでした。だから、理解できた言葉に反応します。
「一緒にって、どこか引っ越すの?」
「引っ越さんけど、一緒に暮らせるのは、どれかひとつやん」
「ひとつって?」
「ひとつ」
彼は足下をすり抜けた犬の残像を指しました。ふわふわとした毛とぬるい体温とが、わたしの臑を掠めていきます。
「……犬は、ひとつって数えないんだよ?」
「え? そりゃ生きてる犬はそうやけど……」
つまり彼は「死んでしまった犬」の話をしているのだ、とわたしは考えました。病気だか寿命だかで死んでしまった犬の遺骨を、全部この家に保管することはできないのだろう、と理解したのです。
だから特別な一頭のお骨だけが、彼や家族とともに「一緒に」この家に置かれるのだと考えたのです。
わたしはそれ以上、死んでしまった犬の話題を続けたくなくて、しゃがみ込みました。思い出したように部屋に駆け込んでは去って行く犬たちをただ見詰めます。
そんなわたしを哀れんだのか、男の子は自分の部屋の隅を指しました。
「こっちなら、触れるかも」
木箱が置かれていました。幼児がくぐって遊ぶような、側面に穴の空いた木箱です。ポップな黄色い塗料は所々剥がれ、犬たちの歯形がついていました。
そっと覗き込むと、一頭の小型犬がうずくまっていました。
「もうちょっとで生まれんねん」
お母さん犬でした。子供が宿りぽこっと膨れたお腹越しに、ヴヴ、と低い威嚇の声が聞こえます。
「触っちゃいけない子じゃないの?」
「でも、こいつだけは噛まへんし」
つまり他の子は噛むのです。
そしておそらく、噛まないとはいえお母さん犬も人間に触られることを好んではいない様子でした。
わたしは木箱から離れます。
「触らんの?」
「うん」
かわいそうだし、とは口にしません。なんとなく、その言葉は彼を傷つける気がしたのです。
わたしはもう、この家の犬たちに対しての興味を失いつつありました。
部屋の真ん中に置かれた天体望遠鏡のほうがよほど魅力的に思えたのです。望遠鏡はレンズを天井に向けてセットされていました。
屋根の勾配に合わせて斜めになった天井に、天窓がありました。ぽっかりとそこだけ、青空が望めます。
「いいなぁ、屋根裏部屋みたい」
「屋根裏? 別にあるよ」
男の子は「こっち」と手招きをして部屋を出ます。部屋のすぐ前の天井に、四角い切り込みが入っているのが見えました。
男の子がどこからともなく先端にフックがついた棒を持ってきます。フックで天井に埋まっている取っ手を器用に引っ掛けて、引っ張りました。
ぞろっと天井からはしごが延びてきました。天井の切り込みに会わせて、黒々とした闇が現れます。
「上がる?」
想像していたよりずっと暗い行き先に、わたしは首を振りました。
わたしの知る屋根裏部屋は物語や伝記に描かれている、ランプの光が灯る空間でした。けれど今、頭上で口を開けているのは、重たい暗闇だったのです。
男の子はつまらなさそうに棒を廊下に投げ出しました。
引き下ろしたはしごをそのままにして、部屋へと戻っていきます。
わたしも慌てて続きました。屋根裏の闇の下にいたくなかったのです。
と、弾丸のように駆けてきた犬がはしごに飛びつきました。ひょこん、ひょこん、と一段ずつはしごを登っていきます。
「え、いいの?」とわたしは驚きました。
彼は部屋の中から顔だけで振り返って、ひどく面倒くさそうに「いいよ」と答えます。
「どうせ、いつかは、みんな、ソコに行くし」
言葉のひとつずつを区切って、彼は妙にはっきりとそう言いました。言ってから、ふと思い立ったように踵を返して戻って来ます。
「いつか、より、今でもいいか」
独り言とともに、彼は勢いよくはしごを跳ね上げました。
「え、犬……」
「いいよ」彼は楽しそうに言います。「どうせ、いつかは、いくんやし」
わたしはゆっくりと上がっていく天井板を見送るしかありません。あの漆黒の闇の中で犬がどうなるのか、考えたくもありませんでした。
彼は平然と部屋へと戻っていきます。
「ねえ、犬。どうするの?」
「うるさいなぁ。どうもせんよ。どうせ見つかるんやし」
わたしはひどく困惑していました。犬と一緒に暮らす、ということは、もっとお互いに優しくし合い思いやる関係が築けるのだと、夢想していたのです。
けれどこの家の犬たちは、あまりにも人間を無視していました。人間側──彼やドライバーの青年──もまた、犬たちをうるさく動き回る「物」のように扱っています。
わたしが妄想してきた犬と人間との関係とは、違いました。こういう関係こそが犬との正しい付き合い方のようにも思えてきました。
部屋に戻った彼は、天井裏に閉じ込めた犬のことも、わたしの存在すらも忘れてしまったようにハイベッドに上がって寝転んでしまいました。
フローリングの床にはわたしと、木箱に入ったお母さん犬だけが取り残されています。
わたしはお母さん犬の様子を見ることもできず、ただ立ち尽くします。
どうして良いのかわからず、わたしは数分してから「帰る」と告げました。
「帰んの?」少し意外そうな声がハイベッドから降ってきます。「望遠鏡、見ぃひんの?」
「……なにが見えるの?」
「山」男の子はバカにしたように息を漏らしました。「あの窓、山しか見えん」
わたしは「そう」と俯いて、部屋を出ました。犬に追い立てられながら、広い家の中で迷子になりつつ、なんとか玄関にたどり着きます。
思えば、彼の部屋には水色に星がちりばめられた、いかにも子供部屋っぽい壁紙が貼られていました。きっと天体望遠鏡で星を探す必要もないのでしょう。
わたしは自分の家の、母と並んで眠る和室のみすぼらしさを思い出しました。黄ばんで破けた襖は、きっと張り替えられることもないのでしょう。
なんだか惨めな気分で大きな車が停まっている駐車場を抜けます。と、鉄製の門が行く手を阻みました。監視カメラを振り返ってみても、門は開く気配がありません。
仕方なく、わたしは車を拭いていたドライバーの青年に「帰ります」と声をかけました。
青年は無言で監視カメラに手を振ります。途端に門が開きました。
礼を言って門を抜けるとき、わたしは青年に犬が天井裏に入ってしまったことを告げました。
「ごめんなさい」と謝って、青年の返答を待たずに門の外へと駆け出しました。
怒りをあらわにした男の子がわたしをぶったのは、週が明けた月曜日のことでした。
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