もう離れられない

「あの……円華さん?」

「……………」


 元彼さんとの邂逅の後、俺は何も喋らない円華さんに手を引かれていた。

 絶対に離さない、そんな意思を感じさせるほどに強く握りしめられた手と僅かにヌルッとする感触は汗かな?


 まあそれはいいんだ。

 さっきの出来事のインパクトが大きすぎて……あぁもう、さっきのは本当に現実なのか? いや現実なのは分かっているけど……うがああああああああっ!!


「……ふぅ……ふぅっ!」

「……………」


 円華さんの息遣いが激しい……最初は疲れかと思ったけどどうやらそうではないみたいだ。……ヤバい、こうして円華さんに手を握られているということは彼女に触れているということでもある。つまり……いや何がつまりなんだって話だが、さっきのキスの光景が蘇る。


『ぅん……っ!』

『っ!?』


 ……そう、キスをしたのだ。

 円華さんとのキス、それも生まれて初めて異性とキスをした。唇に触れた感触はとても柔らかくて、そしてとても甘い香りがした。だがそれだけじゃなくて、口の中に入り込んだ舌の感触すら鮮明に思い出せてしまう。


「……っ」


 あれにどんな意図があるのか、俺はまさかを想像してしまう。

 触れ合うだけのキスではなく、あのような深いキスをされたのだからそんなことを考えても仕方ないはずだ。


「……円華さん」

「もう少しだからね千夏君、帰ったらゆっくり話をしましょう」

「あ、はい……」


 ……よし、取り合えず帰ってからだ!

 相変わらず口数少ない円華さんと共にマンションまで帰って来た。そして当然向かう先は円華さんの部屋で、俺を先に中に入れると円華さんが後から入り、ガチャッと音を立てて鍵を閉めた。


「千夏君!!」

「うわっ!?」


 背中から円華さんがドンと勢いよく抱き着いてきた。

 そのまま背中に張り付くように、そして腕をお腹に回すようにして密着してきた円華さんに俺は驚いたが、すぐに俺も円華さんの手に自身の手を重ねた。


「……取り合えず、座りませんか?」

「……そうね。そうしましょう」


 しばらく背後から抱き着かれる体勢が続いたが、俺がそう言うと円華さんはようやく離れてくれた。リビングに向かいソファに座ると、円華さんが体全体で俺に向き合うようにしてきた。


「……ふふ、千夏君♪」

「あ……」


 ニコッと微笑み、彼女は俺の手を取った。

 手から伝わる温もりはもちろん、向けられた笑顔に心臓が激しく脈を打つ。俺はこの笑顔を守りたいと思ったし、この笑顔を俺だけに向けてほしいって独り占めしたくなったんだ。


「円華さん、俺はあなたが好きです」

「うん。私も好きよ」


 好きだと、そう言われて俺は反射的に円華さんの体を抱きしめた。可愛らしい悲鳴を上げた円華さんだが、決して俺から離れようとはしなかった。それどころか、もっと強くしてほしいと口にした。

 俺は更に抱きしめる腕に力を込めたが、あくまで痛くないように慎重だった。


「あぁ……やっと……やっと千夏君が私のところに……ふっふぅ♪」

「円華さん?」

「あぁごめんなさい。つい嬉しさでいっぱいになっちゃって」


 俺だって嬉しさと幸せでいっぱいだ。

 こうして円華さんと見つめ合っているだけで嬉しいんだ。出会ってからずっと憧れだったお姉さんが今、俺の腕の中に居る。俺のことも好きだって言ってくれたんだ。


「俺、ずっと円華さんが憧れでした。でも……円華さんには彼氏が居て俺にはチャンスも何もないって思ってて」

「うん……」

「……正直、今でも夢を見ている気分なんです。こんな素敵な人が好きって言ってくれたことが本当なのか、今腕の中に居る円華さんが本物なのか――」


 そこまで言って俺は円華さんにキスをされた。

 先ほどの記憶を無理やりにでも思い起こさせる舌を絡めたキスだった。互いの唾液を交換するようなそのやり取りは確かに恥ずかしく、そして大いに緊張するものだったがとても心が満たされていく。


「……どう? これでも本物だって分からないかしら?」

「……いいえ、本物……です」

「えぇ。私は本物よ。千夏君を愛し、千夏君にだけ愛されたいと願う女なの」


 円華さんは俺を見つめたまま言葉を続けた。


「千夏君と過ごすようになった日々があまりに幸せ過ぎて忘れそうになるわ。あぁそんなこともあったなって、私にとってとても大きな出来事だったのにそれを忘れてしまいそうになるくらい千夏君のことしか頭になかったの」

「……っ」


 つまり、かなり早い段階から円華さんは俺を想ってくれていたってことなのか。確かに今になっても思えば、ただ知り合っただけにしては本当にスキンシップが激しかったもんな。それなのに俺は、あの出来事があったとはいえこんな俺に円華さんみたいな素敵な人が振り向くことはないって決めつけていたんだ。


「ねえ千夏君」


 俺の頬に両手を添えて円華さんはこんなことを口にした。それは間違いなく、俺を円華さんに縫い付けるような悪魔の囁きだった。


「私を……どうしたい?」

「……………」

「千夏君は私を……どうしたいの?」


 円華さんをどうしたいか……俺は彼女が欲しい。

 円華さんを独占したい……そして、俺だけの円華さんで居てほしい。ずっとずっと俺だけを見てほしい、俺だけを甘やかせてほしい……あぁそうか。円華さんに溺れるってのはこういうことなのか。


「円華さんが欲しいです」

「あげるわ」

「俺だけを見てほしいです。俺だけの円華さんで居てほしいです」

「えぇ。居てあげるわ。私は千夏君だけのモノよ」


 円華さんは戸惑うことなく、俺への言葉を返してくる。その言葉を聞くたびに、どんどん円華さんの存在が大きくなってくる。


「そして……」

「うん。恥ずかしがらず言っていいの。何を伝えたいの? 千夏君は私にどんなことを望むの?」


 何でも言って、その言葉に俺は頷いてこう伝えたのだ。


「俺……円華さんに溺れてもいいですか? あなたに包まれてもいいですか?」


 そう伝えた瞬間、円華さんの目の色が変わった気がした。

 暗くなった瞳に映るのは俺だけ、その俺の表情は少し……怯えていたようにも見えた。円華さんから醸し出される雰囲気に圧倒されているようで、けれどもそんな彼女に見つめられていることに嬉しささえも感じる。


「いいわよ、私が千夏君を包み込んであげる。どこまでもずっと、離れられないくらいに」

「……円華さん」

「千夏君、私はあなたを逃がさないわよ? それでもいいの? 一生傍に居てもらうわよ? 一生愛してもらうし、一生愛するからね?」


 円華さんの言葉は止まらなかった。

 真っ直ぐ見つめられながらそう放たれた言葉の数々に、俺は頷いた。これで俺はもう円華さんから逃げられない……否、逃げるつもりなんてない。


 どこまでも溺れて行こう、そんな契約への頷きだった。

 トンと円華さんの体を押し倒して覆い被さった。抵抗をしない円華さんの体に倒れこむと、顔を包んでくる至高の柔らかさに夢中になる。


「ふふ……ほら、もっと好きなことして大丈夫。千夏君がしたいことを思う存分やってみて? あぁ……素敵♪」


 そんな呟きが耳に届き、俺は円華さんに甘えるようにその温もりと柔らかさを堪能するのだった。





(……あぁ素敵よ千夏君。私、今人生で一番幸せだわ♪)


 円華は今まで必死に千夏を自身に繋ぎ止めようとしていた。

 重すぎる愛を押し付けるのではなく、あちらから溺れたいと思わせるように仕向けてきた。それは決して悪意ではなく、彼を愛しているが故に。


「円華さん……円華さんっ!」

「……うふふ♪」


 頬の緩みが収まらない、自分で制御が出来なかった。

 千夏が必死に円華さんを求める姿は愛らしくもあり、同時に組み敷く彼の姿が力強くもあってキュンキュンしてしまう。

 自分の意志に反して思った以上に大きく実った胸に夢中な千夏の姿に途方もない愛おしさが溢れてくる。彼を想って体を慰めることだって多かったせいもあって、直接彼に好きにされるのを見るだけで体が火照ってしまう。


「千夏君、好きよぉ」


 もっと甘えてほしい、もっともっと……もっと千夏を体に刻んで欲しい。円華はそう願い千夏をただただ甘やかせる。


 想いは伝え合った。


 円華が欲しいという言葉に頷いた。


 逃げられないという言葉に彼は頷いた。


 もう、円華を押し留めるモノは何も存在しない。

 後はただ沈んでいくだけ、愛と言う名の決して抜け出せない沼に二人で沈むだけなのだ。そうして出てこれなくなる……あぁ、出てこれないだろうと円華は思った。


 もう、二人は離れられない。

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