やっと堕ちた

「ふふ、美味しい?」

「はい。とても美味しいです」

「そう♪」


 お座敷に座って円華さんと向かい合いながら食べるお寿司は美味しい。まあお店だからというのはもちろんだと思うけど、このひとときを円華さんと一緒に過ごしているということがとにかく嬉しかった。


「……あむ……うん美味しい」

「……っ」


 ついお寿司を食べる円華さんをジッと見つめてしまった。ただ食べているだけなのに、その口元に吸い込まれていく動作すら色っぽくて……そこまで考えて俺も食べることに意識を戻した。


「あまり緊張しないでね? いつも通り、楽にしてちょうだい」

「……はい」


 どうやら気付かれていたみたいだ。だが逆に指摘されたおかげで緊張が解れた。それからの俺は円華さんといつものように雑談を交えながら、運ばれてくるお寿司を平らげていった。


「……ふぅ」


 十皿程度詰みあがったところで俺は大きく息を吐いた。

 もう少し食べれるかなと思っていたけど結構お腹が膨れた。まあ寿司だけでなくポテトや唐揚げもメニューにあったので頼んだからかな……凄く美味しくてバクバクと口に運んでしまった。


「もういいの?」

「そうですね。食べたのもありますし……それに」

「??」

「……円華さんと一緒ですから幸せでお腹いっぱいに……なっちゃって」


 うん、最高にクサいセリフを言ってしまった。俺は湯呑に淹れてあったお茶を喉に通して恥ずかしさを洗い流すことに。その間、チラッと円華さんを見ると彼女はボーっとしたように固まっていた。


「……私も」


 そして、円華さんは両頬に手を当てて恥ずかしそうにこう言った。


「私も幸せ……おかしいわね。いつも抱きしめたりしてるのに、この前はお風呂も一緒に入ったのにどうしてこんなに……あぁ♪」


 円華さんがジッと見つめてきた。俺もそんな円華さんから視線を逸らすことが出来ずに見つめ合った。円華さんはともかく、俺は湯呑に口を付けた状態の間抜けな姿だが、それでも円華さんの瞳から目を逸らせない。


「……そろそろ出ますか」

「えぇ」


 この空気にちょっと耐えられなかった。別に円華さんと一緒に居るのが耐えられなかったのではなく何だろうな……甘い空気というか、いつもよりも濃く感じるそれが気恥しかった。


「ありがとうございました~!」


 大きな声に見送られ、俺と円華さんは店を出た。

 これから後はもう帰るだけ……それを寂しくも感じてしまう。


「千夏君、腕を借りるわね」

「え?」


 円華さんはそう言って俺の腕を取った。服の上に当然上着を羽織っているが、それでも感じることの出来る柔らかさに意識が集中する。


「帰るまでこうしていましょう?」

「……はい」


 当然、俺は頷いた。

 こんな風に腕を組んで歩いていると円華さんと恋人になった気分にさせられる。でも俺と円華さんは付き合っておらずそういう関係ではない。今よりももっと進んだ関係になりたいのは当然だ……当然に決まってる!


「あ、あの――」

「千夏君」


 俺の声に被せるように円華さんが名前を呼んだ。勢いを削がれたように俺は言葉を止めたが、円華さんはジッと俺を見つめてきていた。


「これからずっとこうやって二人でなんだって出来るわ。ご飯も作ってあげるし、こうして外食に出るのも一緒よ。何なら遊びに出掛けるのも良いし、どんなことでも千夏君と一緒なら私は嬉しいわ」

「……円華さん」

「おいで千夏君」


 俺から離れた円華さんが腕を広げた。いつもの抱き着いてきなさいのポーズ、俺は迷うことなく円華さんに抱き着いた。


「ずっと一緒よ……ずうっと、私たちは一緒なの」

「ずっと一緒……」

「そう。なんだってしてあげるから……だからもっと私に甘えていいの。溺れていいのよ。頷いて千夏君、うんって」

「あ……」


 頬に両手を添えられて顔を上げた。

 見つめてくる円華さんの瞳に吸い込まれそうな気さえしてくる。そのまま円華さんの顔が近づき……その時だった。


「あん? 円華じゃねえか」

「?」


 円華さんの名前を呼ぶ男の声が聞こえた。

 俺と円華さんは揃ってその声の方向に視線を向ける。するとそこに居たのは一人の派手な格好をした男だったのだが、俺には見覚えがあった。


 彼女か誰か知らないが、言い合いをしていた人で……更に言えば道端にタバコをポイ捨てしたあの男だった。


「……アンタは」

「千夏君? ……何の用かしら?」


 俺を背に庇う様に前に出た円華さん、男は俺と円華さんを交互に見て嫌悪感を感じさせる笑みを浮かべた。


「なんだよ新しい男か? 俺と別れたばっかなのにすぐ作りやがって、随分尻の軽い女になったみたいだな?」

「……まさか」


 ……そうか、こいつが円華さんの元彼になるのか。

 話に聞いただけでどんな人かは知らなかったけど、こんな人と円華さんが付き合っていたことが信じられなかった。まあ聞いた話では最初は凄く優しい人だったみたいだけど、円華さんにした仕打ちを考えたら俺はこの人のことが許せない。


「言いたいことはそれだけ? もう私とあなたは一切の関係がない、だからもう話をすることはないわ。千夏君、行きましょう」


 円華さんが俺の手を引いてこの場から離れようとしたが、当然男は俺たちを見逃すつもりはないらしい。


「おい待てよ円華、よりを戻さねえか?」

「……はぁ?」


 男の言葉に俺は目を丸くしたが、それ以上に円華さんの機嫌が急降下した。男を見つめる円華さんの視線はとても鋭く、その目に映っていない俺でさえもビビってしまうくらいだ。


「新しい女とも別れてさぁ、つまんねえんだわ。そんなガキみてえな奴よりお前も俺の方がいいだろう? 戻って来いよ円華」

「何を言って――」


 円華さんが更に何かを言おうとしたが、俺は気づけば円華さんと体の位置を変えていた。俺が円華さんを庇う様に、彼女を背に隠すように俺は前に立っていた。


「千夏君!?」

「なんだよお前……はっ、引っ込んでろよ」

「……………」


 正直……今俺はとてつもなく怒っていた。

 円華さんを苦しめた存在が前に居るのもあるし、円華さんが命を絶とうとしたことすら知らずに戻って来いなんて無責任なことを口にした。円華さんがあんなに暗い表情を浮かべていた時に、何も知らずのうのうと新しい女を作って平然と過ごしていたこいつが何を言ってるんだ!!


「……円華さんは渡さない」

「あん?」

「円華さんは渡さないって言ったんだよ!!」


 夜の街に大きな声が響き渡った。

 怒っている……そうだ、俺は怒っている。でもそれ以上に嫌なのが……円華さんを誰にも渡したくない。この人は俺が……俺の傍に居てもらうんだと変な独占欲が溢れて止まらない。


 あの声を、笑顔を、体を、想いを、全部与えられていいのは俺だけなんだと途轍もない黒い感情が止まらないんだ。


「この人は俺にとってとても大切な人だ。これからずっと、何があっても俺は円華さんに傍に居てもらいたい。俺も円華さんの傍に居たい……ずっと一緒に、ずっと一緒に居たい! だから、アンタみたいなやつに円華さんは渡さねえ!!」

「……あ」

「おいおい、何熱くなってんだよ下らねえな」


 俺の啖呵に男は鼻でもほじりそうなくらいに退屈そうな顔をしていた。俺よりも体格は良いし年齢も上、本当に俺のことなんかただのガキ同然にしか思ってないんだろう。だがそれでも構わない、それでも円華さんを守ることは出来るのだから。


「ナイト気取りかようざってえな」


 うるせえよ、アンタに何を言われても響くものはない。

 そのまま俺と男が睨み合っていたその時だった。顔を伏せた円華さんが俺の前に立ち、さっきと同じように俺の頬に両手を添えたのだ。そして……。


「ぅん……」

「っ!?」


 円華さんの顔が近づき、俺はキスをされていた。

 突然のことに驚いた俺だが、決して暴れたりすることはなく円華さんにされるがままだった。触れ合うだけのキスだったが、すぐに舌まで入り込んできて口内を円華さんの舌が這う。


「……ぷはぁ♪」

「ま、円華……さん?」


 顔を離した円華さんはニコッと笑った。その笑顔に少し寒気を感じたのは気のせいだと思いたい。円華さんは男に向き直った。


「この通り、もう私は彼と愛し合っているの。全部彼に預けたい、全部彼からももらいたい、それだけ強く想っているの。そこにあなたが介在する余地はないわ……だからもう一度言うわね――消えてちょうだい」


 円華さんの言葉と、周りから何事かと集まっていた視線を受けて男は舌打ちをして去っていった。


「……円華さん?」


 ……えっと、さっきのキスは夢だったのか?

 それとも現実? 頭がフワフワしていて理解が追い付かない。ボーっとした俺の腕を引いて円華さんは歩き出し……そしてこう呟いた。


「千夏君、帰ってからお話しましょう――」






――やっと堕ちたわ♪――

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