もう逃げられない、溺れてしまえ

 風邪を引いてしまうアクシデントからしばらく経った。あれからも円華さんと過ごす時間は減ることはなく……その、嬉しいことにどんどん増えて行った。朝に出会ったらお弁当を受け取り、学校から帰ったらすぐに家に招き入れてくれた。


『言ったでしょう? 千夏君をいつでも包んであげるって』


 抱きしめられた時、いつも俺に言い聞かせるように円華さんはそう言っていた。恥ずかしさは少なからずあるのに、そんな円華さんの言葉と温もりに甘えたくて俺は決して離れることはしなかった。


 涼真はそこまでだが、白雪がやけに円華さんとのことを聞いてくる。白雪も円華さんのことをとても気に入っているらしく、流石に家に来たりはしないが連絡は取り合っているらしい。


『本当になっちゃんは愛されてるねぇ』


 なんてことをいつも言われる始末、うるさいと恥ずかしそうに言っているのは照れ隠しとしか思われていないだろう。学校の居る間は円華さんのことを考え、終わればすぐに会いたくて足早に帰る……ほんと、どんだけ円華さんのことが好きなんだよ俺は。


「……こんなにも優しくしてもらってるのに俺は……よし!」


 俺は握り拳を作って意気込んだ。

 与えられるだけではダメだ。俺も円華さんに対して何かをしてあげたい、そうと決まれば……早く帰らなくては!


「ちょっと! それどういうことよ!」

「だから何度も言わせんじゃねえ! お前とは別れるっつってんだ!」

「いきなりどうして!? ふざけないで!」

「ふざけてんのはお前だろうが!!」


 なんだ痴話喧嘩か? なんて思ってそちらに目を向けると、いつぞやのタバコを捨てて知らんぷりをしていた二人組だった。何か気が合わなかったのか、それとも別の何かがあるのか……正直どうでも良かったので俺はそのまま素通りした。


 俺以外にも多くの人が見ているにも関わらずずっと罵り合いをする男女……あんな風にはなりたくないな。


「白雪と涼真を見習えってんだ」


 まああれくらいのバカップルはそうそう居ないか、逆に世の中あんなカップルばかりなら砂糖の雨が降って大変なことにはなりそうだが平和だよなきっと。


「……そろそろ帰りますっと」


 いつものように円華さんにメッセージを送っておいた。こうしてメッセージを送ったわけだけど、実は円華さんからもう普通に入ってきて良いとは言われている。それに……俺は懐からそれを取り出した。


「これ宝物だよな……ってやめとけ気持ち悪いから」


 俺が取り出したのは円華さんから受け取った彼女の部屋の合鍵だった。俺の部屋の合鍵を渡したお礼らしいけど……その、少し受け取るのに戸惑った。


『良いから受け取ってちょうだい。それがあればいつでもこっちに来れるから。まあ基本的に千夏君が来るときは鍵を開けてるけれど♪』


 ニコッと笑って円華さんは俺の手を取って鍵を握らせたのだ。まるで断ることは許さないと、矛盾しているかもしれないが優しい圧を感じて俺は頷いた。結局そのまま鍵を受け取って今に至るけど、絶対に無くさないように気を付けないと。

 サッと駆け足でマンションまで戻ってきた俺はそのまま荷物を置いて円華さんの部屋に向かった……のだが。


「……?」

『……ちな……くん……っ……』


 何か声が聞こえた。

 俺は首を傾げながらもドアを開け……あ、開いた。どうやらメッセージの返事はなかったけど見てくれていたみたいだ。そのままドアを開けて中に入ると、円華さんが出迎えてくれた。


「お帰り千夏君♪」

「ただいまです円華さん……?」

「ど、どうしたの?」


 少し顔が赤くないか? それに僅かに汗も搔いてるような……取り合えず特に何ともなさそうだったのでそのまま俺はリビングに向かった。すると、むわんと甘い香りが鼻孔をくすぐってきた。

 ソファに座った俺の隣に円華さんが座ると、更に香りが強くなった。


「……変な臭いでもする?」

「え? あぁいえいえ、凄く甘い良い匂いがするなって」

「そ、そうなのね……ふふ、それなら良かったわ♪」


 香水でもない本当に良い香りなんだよなぁ。

 取り合えずこの香りに関しては一先ず置いておいて、俺はさっそく円華さんにあの提案をすることにした。


「あの、円華さん!」

「ひゃい!?」


 おっと、つい勢いが強すぎてビックリさせてしまったみたいだ。俺は一旦深呼吸をして落ち着き、こう言葉を続けるのだった。


「円華さん、何かして欲しいことはありませんか?」

「してほしいこと!?」


 目をカッと見開いて円華さんが体を寄せてきた。今度はその勢いに俺が仰け反ることになったが……円華さんの体を押し留める拍子に両手がバッチリと大きな胸を掴んでしまっていた。

 ジッと俺を見つめていた円華さんだが、すぐに胸に触れている手に気付いてそちらに視線を向け……そしてすぐに俺に視線を戻した。


「大胆ね千夏君」

「ごめんなさい!!」


 パッと手を離した。

 円華さんはクスッと笑みを浮かべて気にしないでと言ってくれた。それにしてもいつ見ても凄いし触っても凄まじいほどの感触だ……ってそうじゃないだろ! 俺はどうしてこんな提案をしたのか、そのことを話すのだった。


「なるほどね。別に気にしなくてもいいのに……って私がそう言ったらダメなのよね。う~ん、千夏君にして欲しいこと……ねぇ」

「何でも……は難しいですけど、円華さんにお返しがしたいんです」


 ジッと円華さんの目を見つめて俺はそう言った。別にしなくてもいい、お礼なんていらないから、そんな言葉は聞きたくなくてつい円華さんの手を強く握りしめてしまった。


「……分かったわ。今決めたわよ」

「本当ですか?」

「えぇ。千夏君、今日はこっちに泊まっていきなさい」

「分かりまし……うん?」

「泊まっていきなさい」


 ……あれ?

 そんな風に俺は聞き間違いじゃないのかと思っていた。一旦お風呂の為に部屋に戻り、そしてご飯を一緒に食べて……俺は円華さんに手を引かれて寝室に招かれた。実を言うとこの寝室に入るのは初めてではない、とは言っても荷物を運ぶ手伝いのためだった。


「はい、おいで千夏君」

「……………」

「添い寝してほしいの。ダメとは言わないわよね?」

「……………」


 確かにして欲しいことって言ったけどこれは予想していない! 俺のベッドと違い円華さんが使っているベッドはそこそこ大きかった。それこそ二人一緒に寝ても全然問題ないくらいだった。


「来てくれないと今日は私、寝ないからね?」

「うぐぐっ……」


 部屋の中央で立ち竦む俺を円華さんは見つめていた。少し寒い時期になったということもあって、こうしていると足先から段々冷たくなってくる。暖房が利いているとはいえ円華さんも同じだろう。

 掛け布団を退けたまま、彼女はずっと俺をジッと見つめて待っていた。そんな中、寒そうに少し体を震わせたのを見て俺は決心を固めるのだった。


「……それじゃあ」

「うん」

「失礼します」

「いらっしゃい♪」


 柔らかい質感の上に横になると、待ってましたと言わんばかりに円華さんが俺と自分の体に掛け布団を被せた。正直なことを言えば物凄く緊張しているけれど、それ以上にこの温もりがどうしてか途轍もなく安心した。


「……ふわぁ」

「あら、良い時間だけど眠たかったの?」

「疲れたのかも……しれないですね」


 凄い至近距離に円華さんの顔があって、その吐息も鼻を掠めるように届く。けれど幸いにも緊張やドキドキより眠気の方が強かった。


「ねえ千夏君」

「なんですか?」

「……凄く安心して落ち着くわね」

「……はい」


 思えば、俺の場合はこうやって夜に誰かと寝るのは久しぶりだった。一番近い記憶だと涼真の家に泊まりに行った時、白雪もその時は居たが三人で川の字で寝たくらいだったな。

 ……夜、暗い中で眠ることに寂しさは感じない。でも、こうやって誰かが傍に居るのは本当に安心する。


「円華さん……俺」

「どうしたの? 私に全部聞かせて」

「……もう少し近づいても――」


 良いですか、そう言い切る前に円華さんがグッと俺を抱き寄せた。

 綿のように柔らかなパジャマの感触と、その内側に包まれた大きな膨らみに誘われた。円華さんは優しく頭も撫でてくれて……あぁ、昔に母さんにこうされていたのを思い出す。


「言ったでしょう? 甘えても良いんだって。私はいつでも応えてあげるから」

「……ありがとうございます」

「お礼なんていらないわ。私にとって千夏君を甘やかせるのは――」


 段々と小さくなった声を聞き取ることは出来なかった。円華さんから感じる優しさと言う名の何か、まるで溺愛されているような感覚に陥ってしまう。やっぱりこうされる度に思うのだ――この温もりに溺れてしまえと。




【あとがき】


そろそろ決着が付きそうです。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る