悪魔の囁き

「……やっちまった」


 朝、目を覚ました段階で体が重かった。まさかと思って熱を測ってみると案の定俺は風邪を引いてしまったらしい。


「……こほっ! こほっ!」


 最後に風邪で休んだのは確か中学生の頃だったし、それを考えると何とも懐かしい気分にさせられた。最近は円華さんと話をすることが多くなったし、部屋に行くなんていう奇跡的な出来事もあって調子に乗っていたのかもしれない。


「……あぁそうか。一人だから学校には自分で連絡しないとか」


 前までは母さんが居たのでこういった連絡は全部母さんがしてくれていたが、今は一人なので自分で全部しないといけない。……ってマズいな、いつもならもう外に出てる時間で円華さんと会ってる時間だ。


 なんてことを考えていると、ピンポンとインターホンが鳴った。

 俺は重たい体を持ち上げるように起き上がり、あまり心配させないようにとどうにか咳もしないように心掛ける。

 扉を開けると、やっぱりお弁当を手に持った円華さんが居た。


「おはよう千夏君……ジッとして」


 こんな時にも円華さんの顔を見ることが出来るなんて嬉しいな、なんてことを思った途端に円華さんが視線を鋭くして俺の部屋に足を踏み入れた。思えば円華さんが俺の部屋に入ったのは初めて……かな?


「円華さん?」

「顔色が悪いわ。風邪……みたいね? 熱はあるの?」


 一瞬にして距離を詰めた円華さんに俺は更に体の体温が上がったような気がした。すべすべの手が額に添えられ、その冷たさに気持ち良いと思えるあたりやっぱり熱があるんだなと実感する。


「……あの、実は休もうと思ってて――」

「当たり前でしょう。学校には連絡したの?」

「これからしようと思ってました……円華さん、お弁当ごめんなさい」


 謝ると円華さんは笑みを浮かべて気にしないでと言ってくれた。熱が出ているのなら横にならないと、そう言われて円華さんに背を押される形で部屋に戻った。


「……千夏君の部屋……ふふ、初めて来たわね♪」

「その……何もないですが」

「男の子の部屋って感じね。とても片付いてて綺麗だわ」


 ……何の気まぐれか昨夜に片付けしてて良かったぞこれは。

 そのままベッドまで送ってもらい、横になると円華さんが満足そうに頷いた。


「よしっと、あぁそうだ千夏君。高校の番号教えてくれる?」

「あ、ちょっと待ってください……?」


 えっと、もしかして……俺はまさかと思いながらも番号を教えた。すると円華さんはどこかに電話を掛けて……ま、絶対にうちの高校だよな。


『もしもし、おはようございます。佐伯と言う者なのですが……』


 たぶん事務員の人が出て、そこから担任に代わってもらった感じかな。俺が風邪を引いていることを伝え、俺自身の声でも先生に伝えておいた。


『分かった。今日はゆっくり休むと良い。元気になるのを待ってるからな?』

「なんか先生が優しくて泣きそう」

『馬鹿野郎、教師ってのはいつも生徒を心配するもんなんだよ。じゃあな?』

「はい。失礼します」


 何だかんだ、生徒を大切にする良い先生なんだよなぁ。

 取り合えずこれで学校への連絡は済んだ。円華さんに礼を言うと、気にしないでと笑ってくれて……あぁ、本当に良い人だ。


「それじゃあ私は行くわね。お弁当は――」


 ……まあそうだよな。

 ったく、風邪を引くと心が弱くなるのはやっぱり当然だ。出来ることなら傍に居てほしい、なんてアホなことを考えるくらいだもんなぁ……まあ寝て起きたらすぐに良くなっているのを祈るしかない。


「千夏君」

「はい?」


 ボーっと天井を眺めていると、円華さんから聞き流せない言葉が飛び出した。


「私、今日は大学休むわね。一日千夏君の傍に居るわ」

「そうですか……ふぁっ!?」


 あ、驚きすぎて体に負担が……ってそうじゃなくて!

 俺は何気なしにそう言った円華さんに視線を向けた。円華さんは特におかしなことは言ってない様子で俺の傍に近づいて手を握って来た。


「もちろん、千夏君の部屋に居ても良いならだけど」

「……あの……えっと……」


 傍に居てくれるのは凄く嬉しいのだが、流石にそれはあまりに円華さんに悪すぎるから断りたい……でも、そんな風に迷う必要のない葛藤をしていると円華さんがクスッと笑った。


「千夏君の目が行かないでって言ってるもの。私、気付いてるわよ?」

「……あ」

「そんな目で見られてしまったら……というのもあるけど、私が千夏君を傍で見守りたいからこうしたいの。それではダメ?」

「……………」


 ヤバい、あまりの優しさに涙が出そうだった。

 握られている手を思わず強く握ってしまうと、円華さんが一瞬目を丸くしながらも俺の顔に視線を戻してニコッと笑った。


「分かったわ。傍に居るから安心してね」

「……すみません」

「良いのよ謝らなくて。無理をしないで、しっかり眠って、ちゃんと食べて早く元気な姿を見せてちょうだい?」

「あはは、分かりました」


 よし、今日はしっかり休んで早く治すぞ!

 ……あぁでも、あんな風に言われても休ませてしまう申し訳なさはある。いや、やっぱり円華さんにはちゃんと大学に行ってもらわないと――。


「千夏君、今日は私……ずっと傍に居るからね♪」

「……あい」


 ……何かが折れた音が聞こえた。

 さて、それからだけどやっぱりすぐに眠れるわけがなかった。でも円華さんはずっと俺を見ていてくれて、普段聞かない話なんかもしてくれて……なんだか今日だけでたくさんの円華さんを知った気がする。


「……なんだか自分だけ喋ってた気がするけど退屈じゃなかった?」

「全然大丈夫ですよ。むしろ、みんなが学校で授業してるのに綺麗なお姉さんと二人で居るって罰が当たりそうです」

「あら、綺麗なお姉さんって言ってくれるの? でもそれなら私も同じだわ。友人たちが大学に居るのに、私はこうしてお隣に住む可愛い男の子と二人だものね♪」


 俺に可愛いなんて言葉は全然似合わないんだけど、円華さんに言われるとこうやっぱり照れてしまう。そういうところよと言われて頭を撫でられ、更に恥ずかしくなって同じことが繰り返される。


「……はっ!? ダメよ円華……こんなことをしたら熱が上がっちゃうわ!」

「あぁ……まあこれくらい良いんじゃないですかね」


 だってもう俺の頭はフワフワしてるし。

 苦笑した俺を見て円華さんは同じように頬を緩めたのだが、少しだけ真剣な声音でこう語りかけてきた。


「千夏君、あなたは一人じゃないわ」

「……円華さん?」

「こうして風邪を引いたりした時だけじゃなくて、少しでも寂しいと思ったりしたら頼れる存在が傍に居ることを覚えててほしいのよ。私はいつでも千夏君の傍に駆け付けるわよ? あの時、あなたが私の元に駆けつけてくれたように」

「……………」


 ……駆けつけてくれる……か、そんなことを言われたらすぐに円華さんの名前を呼んでしまいそうになってしまう。俺はつい出来心で彼女の名前を呼んでみた。


「円華さん」

「なあに?」


 ……………。

 本当にどうしてこんなにこの人はとても優しいんだろうか。俺……本当にこの人のことが大好きなんだなって実感する。役に立ちたいとか、力になりたいってのは当然あるんだけど……俺はどうしてこの人の優しさに染まってしまいたいと思うのか。


「もしも……」

「うん」


 これはただの戯言だ。

 熱に浮かされていることで口から外に出てしまったただの。


「円華さんの優しさに溺れたいなんて思ったら――」

「溺れなさいよ」

「っ……」


 その声だけは凄く怖かった。

 とても強い圧を感じさせる言葉で、円華さんが俺を見る目もどこか暗い瞳をしていた気がする。けどそれも一瞬で、円華さんはニコリと綺麗な微笑みを浮かべて言葉を続けた。


「こんな風に私を変えたのはあなたなんだから……コホン、優しさに甘えることはいけないことではないわ」


 円華さんが耳元に顔を近づけた。

 直接感じる吐息、そして耳元で聞こえる声はまるで暗示のように入り込んでくるかのようだった。


「あなたの目の前には、傍には甘えさせてくれる人が常に居るのよ。手を伸ばせば触れられる、声を掛ければ応えてくれる……そんな人が今目の前に。ねえ千夏君、そんな場所に溺れても良いんだからね?」


 限界が来てしまい目を閉じる瞬間、そんな女神の……いや、悪魔の囁きみたいな言葉が反響していた。


「おやすみなさい、千夏君」


 ……最後に聞こえたその声は本当に優しかった。

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