溢れ出す言葉は誰に向けて

「……………」

「……円華さん?」


 隣で洗い物をしている円華さんがジッと俺を見ていた。

 あの後、円華さんの膝枕をこれでもかと堪能した後のことだ。せっかくだから今日も夕飯をこっちで食べて行かないかと提案され、俺がその甘いお誘いに断れるわけもなかった。


 またすき焼きみたいな鍋物ではなかったが、円華さんが作ってくれたハンバーグや炒め物などを頂いて……うん、彼女から作ってもらえる全ての料理が豪勢に見えてくるほどだった。


 それで作ってもらった料理を完食した後、せめて食器洗いだけでもと円華さんの隣に並んでいるというのが今のことだった。


「……ふふ、ごめんね? こういうのいいなって思ったの」


 そこでようやく円華さんは俺から視線を外した。

 自分の手元に視線を戻したものの、すぐにまたチラチラと俺の方を見てくる。そうすると当然視線と視線がぶつかるわけで、その度に円華さんが笑顔を浮かべそれを見て俺が照れるという時間が続いていた。


「……ねえ千夏君、少し暗い話をしてもいい?」

「いいですよ」

「……本当に優しいのね。ありがとう」


 お礼を言われるほどではないし、円華さんのことは色々と知りたいのが本音だ。それが明るい話でも暗い話でも構わないってそう思ってるから。


「私は寂しかったって……そう言ったのを覚えてる?」

「えぇ」

「……本当に、どうして寂しいからってあんな男の傍に居たのか分からないの」


 一人で心細いのなら誰かに縋りたくなる気持ちは分からないでもない。俺は円華さんじゃないからその時の気持ちも理解は出来ないでも、どんなに円華さんにとって最初はとても優しかった相手だとしても……俺は絶対に許すことは出来ない。


「不安なら頼れる人はいっぱい居たはず、辛い言葉を言われて我慢している内に自分でもどうしたらいいか分からなくなったのかもね。ぬくぬくと育ってきた、なんて言うつもりはないけどキモいとか死ねとか、そういう言葉は言われたことなかったから余計響いたのかも……まあ陰口は分からないけど」


 皿を洗う手を止めて、円華さんはどこか遠くを見つめるようにして言葉を続けた。


「その時には気持ちも離れていたんだと思うけど自分が分からなくて、浮気もたぶんどうでも良くて、きっと強すぎる言葉に嫌になったのね私は」

「……………」


 確かに悪口というか、中傷する言葉に慣れている人間なんてそう居ない。遊びの範疇であったとしても、死ねとか言われて不快に思う人は数多くいるだろう。そんな嫌な言葉をただでさえ弱っている時に言われたら誰だって思い詰めるはずだ。


「今日ね、それをずっと考えていたの。私は何にショックを受けて、何に悲しんでいたのかを。正直もうどうでもいい過去だけど、それを改めて考えた時に千夏君の優しさを改めて実感したわ」

「……俺は」

「ふふ、分かってるわ。そんなつもりはないって言うんでしょ?」


 そう、俺は別に打算があってあんな風に必死に円華さんを助けたいと思ったわけじゃない。ただ生きてほしかったから、あり得たかもしれない万が一の出来事なんか絶対に嫌だと思ったからだ。


「それでも、千夏君が私を救ってくれたのは確かなのよ。何度お礼を言っても足りないけれど、本当にありがとう千夏君。あなたが傍に居てくれて本当に嬉しかった」

「……っ」


 ……ヤバい、心が暴れそうになるくらいに嬉しかった。

 本当にあの時、胸騒ぎを感じて行動に移して良かったと心から思う。ただ、ちょっと円華さんが見つめてくる目が怖いような気がしないでもないけど……いやいや円華さんが怖いって俺は何を言ってるんだ。


「だからね千夏君、これからたくさんお礼をさせてね?」

「あ……はい」


 その瞳に見つめられながら言葉を掛けられると、まるで熱に浮かされたように頭がボーっとした。見返りなんて当然求めていない、だというのにその言葉に俺はどうしても頷く以外なかった。


「千夏君はこの後すぐに帰る?」


 その言葉に俺は考えた。

 時刻はもう八時になるかどうか、俺はともかく円華さんはどうなんだろう。我儘を言えるならもう少し一緒に居たい……なんてことを考えてしまう。


「その目はもう少し一緒に居たいって思ってくれてるの?」

「ふぁ!?」

「それじゃあもう少しここに居て? ううん、帰っちゃダメよ♪」


 ここに居てほしいに動きを止められ、帰っちゃダメよに完全に円華さんに支配されてしまったような錯覚を覚えた。クスクスと楽しそうに笑う円華さんに手を引かれ、俺はまたソファの上に腰かけた。


「また膝枕してあげようか? それとも他に何かして欲しいことはある?」

「……あの……その」

「ゆっくり、ゆっくり何でも言って? 私が千夏君のしたいこと、なんだってしてあげるから。ほら、遠慮なく……言ってみて?」

「……………」


 本当に、ダメにされてしまいそうだった。

 俺は何とかその優しく甘く、そして沼に引きずり込んできそうな声に耐えるようにして立ち上がった。


「しゅ、宿題があるので戻ります!!」

「あ……むぅ」


 あ、可愛いむくれた顔……ってやめろやめろ、俺は頭を振って玄関に向かった。まあ円華さんも分かってくれたのか特に引き留めるようなことはしなかった。靴を履いて玄関を開けようとしたその時、頭の左右を円華さんの腕が伸びて……そして交差するように俺のお腹に腕が回った。


「今日はありがとう千夏君。お菓子もそうだし、一緒の夕飯の時間は本当に楽しかったわ」

「俺もです……最高でした」

「良かったわ。……ねえ千夏君、本当に帰っちゃうの?」

「あ……ぐぐっ」


 ……何だろうこれ、声と腕だけじゃない……他の何かにまで絡め取られているような良く分からない感覚がある。細い糸が幾重にも絡みつくような……っと、そこで円華さんは腕を離してくれた。


「なんてね。困らせてごめんなさい」


 謝られたのでそんなことはないと俺は慌てて返した。体から失われた温もりを残念に思うあたり俺も大概だけど。俺はようやく円華さんから離れ、挨拶をして外に出るのだった。


「……さっぶ」


 外に出ると冷たい風が頬を撫でていく。

 俺は早く温まろうと思って自分の部屋に戻るのだった。最後にもう一度、円華さんの部屋の扉を見てから。





「……はぁ♪ 本当に幸せな時間だわぁ」


 千夏が去った後、彼が出て行った扉を見つめて円華は呟いた。

 頬を赤く染め、恍惚とした表情を隠そうともしない。先ほどまで自らに感じていた温もりと感触を思い返すたびに体が震えてしまう。


「……っ……あぁ欲しい……千夏君をもっと感じたい」


 自分の体を二つの腕で抱くように強く、強く力を込めた。その強さを表すように服の上から大きく実った胸が形を歪めて潰れ、そのことに対し若干の息苦しさを感じながらも円華は妄想していた。


 こんなにも強く、苦しいほどに抱きしめてくる相手が千夏であることを。


「……あ、くるっ」


 ビクッと体を震わせてその場に腰を下ろした円華は荒い息を吐いた。潤んだ瞳はもしもそこに壁がなかったらずっと千夏を見つめ続けている、そんな意思を感じさせるように彼女はずっと千夏の部屋の方角を見つめていた。


「この壁の向こうに千夏君が居る……ねえ千夏君、私は千夏君を想うだけでこんなにもダメになっちゃうの。伝えた言葉に嘘はないけど……もう悲しくなんかない、ただ千夏君が傍に居ないと切ないの……切なくて切なくてぇ……」


 円華は顔を伏せ、そして再びその顔を上げた時……彼女は大きく声を上げた。


「気持ちが溢れて止まらなくなるのよぉ!」


 時に強い想いは人を変え、全く別のモノに変質させる時がある。

 それは円華も例外ではない。とはいえ、彼女の根本が変わったわけではない。彼女が優しい気質なのはその人間性から確立されたものだが……あの件を通し、千夏にだけ感情が揺れ動くようになったのも事実だった。


 寂しい……寂しい……触れたい触れ合いたい……どこまでもどこまでも。


 その円華の想像の先に居るのは千夏だけ、自分よりも年下だが頼りになる優しい男の子。ドロドロに溶かし、甘やかせ、自分から離れられないようにしたいと願い続ける彼を想い、今日もまた円華は寂しく一人で眠りに就く。


「……ふふ……あははははははっ! この寂しさも悪くないわ……この寂しさが一緒になった時にきっと気持ちを燃え上がらせてくれる。ねえ千夏君?」


 この寂しくも嫌ではない夜はすぐに終わる……何となく、円華はそんな予感を抱いていた。

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