深淵に差した光はあなただった
「……………」
「ふふ、緊張しすぎよ千夏君」
「……そうですか?」
テーブルを挟んだ先の円華にそう言われ、千夏は心を落ち着けるようにと深呼吸をした。
「一緒にご飯を食べるだけなんだし……ね? せっかくのすき焼きだからお互いに楽しくお喋りしながら食べましょう♪」
「わ、分かりました!」
二人が挟む鍋の中にはグツグツと音を立てて肉や豆腐、他にも色々な野菜が美味しそうに詰まっていた。少し肌寒い時期ということもあって、こういった鍋物はとても美味しくなる季節だ。
「ほら千夏君、あなたの為に用意したんだから」
「……それじゃあ……いただきます!」
早速箸に握る手を伸ばし、中の具材をバランスよく取っていく。そして円華が見守る中、千夏は肉を息で冷まし口の中に運ぶのだった。しっかりと火が通っていて柔らかく、噛んだ瞬間に広がる肉汁で口の中に美味しさがこれでもかと広がった。
「美味しいですよ円華さん!」
「ふふ、良かったわ。それじゃあ私もいただこうかしら」
円華も箸を伸ばして鍋の中から具材を取っていく。
千夏からすれば気になるお姉さんとの夕食に頬が緩みそうになるが、それを何とか堪えて食事に集中する。幸いだったのがすき焼きが好物ということもあって、あまり円華のことを意識せずに食事の方に意識を割くことが出来た。
「……めっちゃうめえ」
「千夏君が嬉しそうにしてくれると私も嬉しいわ。ほら、たくさんあるからどんどん食べてね」
「はい!」
千夏はそこまで大食いではないが、今日に限っては思いっきり腹を満たす勢いで食べていく。そんな千夏の様子を円華も楽しそうに見つめながら、二人の夕飯の時間は過ぎて行った。
「ねえ千夏君」
「あ、はい?」
まだまだ食えるぞという勢いでこれから豆腐を口に運ぼうとした時だった。円華に話しかけられ、千夏は手を止めて彼女の顔を見た。彼女の綺麗な瞳が真っ直ぐに千夏を見つめており、千夏はどうしてその瞳から目を逸らすことが出来なかった。
「さっきはありがとう」
「え?」
「私が頬を叩かれたことを怒ってくれたでしょう?」
「あ……そりゃあ怒りますよ」
怒るのは当然だと千夏は頷いた。
聞いただけで実際にその場を目撃したわけではないが、千夏は円華が嘘を吐いているとは思わない。そもそも吐く必要がないし……良くは分からないが、本当に千夏は円華が本当のことを言っているのだと分かった。
そこにはやはり円華を思う気持ちがあるからこそだろうが、まあ人というものは身近な人のことを信じてしまう……だからこそ千夏の考えは何も間違ってはいない。
「……千夏君に心配を掛けてしまったことは分かってるの。でも嬉しかった、私のことで千夏君が怒ってくれたことが」
ニコリと、優しい表情で円華に見つめられ千夏はその笑みに見惚れた。
座っていた椅子から腰を上げ、立ち上がった円華はゆっくりと千夏に歩み寄った。
「円華さん?」
近くに来た彼女は千夏の手を取った。
白い綺麗な肌色とすべすべの肌、そんな両手に箸を持たない手を包まれた。宝物を扱うように優しく撫でてくるその手にドキドキしていると、それ以上のドキドキが更に千夏に襲い掛かって来た。
「ムカついたわ。彼らにとても……でもね? 私は特に何も思わなかったし、ずっととある人のことを考えていたらどうでも良かったのよ」
「とある人……」
「あなたよ。私の心を守ってくれた千夏君のことを考えていたら、彼らに抱いた怒りなんてすぐに消え去ったわ。それで澄ました態度を取ってて叩かれたわけだけど、千夏君は人に暴力を振るうことをどう思う?」
そんなものは絶対に嫌だと千夏は答えた。
「うん。私も嫌……暴力なんかよりも優しく包まれる方が好きだもの。千夏君も優しく包まれる方が好きじゃない?」
「好きですね……その、まだそんな経験はないんですが」
「あら~? おかしいわね、こうしてあげたのに?」
円華はその豊満な胸元に千夏の頭を抱き寄せた。
推定Hカップの巨乳に顔が埋まり、千夏は一気に頬を紅潮させた。それでもまだ夕飯の途中だということで、すぐに円華は千夏を解放した。
「……あ、汚れが」
「良いのよ気にしないで。私がいけないんだから♪」
すき焼きを食べていたので少し口元が汚れていた。だからこそ、少しだけ服が汚れてしまったが円華に気にした様子はなかった。洗えば綺麗になる、その言葉に千夏は心底安心するのだった。
「ねえ千夏君、さっきのまたしたくなったらいつでも言ってね?」
「……………」
必死に忘れようとしたのに再び思い出させられてしまった。再び顔が赤くなった千夏を円華は微笑ましく見つめながら夕飯を再開した。
「……円華さんは何というか」
「なあに?」
「人をダメにする感じがします……危険ですよ」
「危険だなんて酷いわね。でもダメになることの何がいけないの?」
「何がいけないって……えぇ?」
千夏が円華から感じたのはとんでもないレベルの包容力だ。それこそ良く使われる男をダメにする女と言う言葉……それを身を持って味わった気分だった。
さて、そんな風に感じた千夏だがダメになることの何がいけないのかと問われ、千夏は困ったように見つめ返すことしか出来ない。
「千夏君はダメになったら私が面倒を見てあげるわ。さっきみたいに好きなだけ抱きしめてあげるし、好きなだけ触らせてあげる、好きなだけ千夏君の好きなことをさせてあげるから」
「……………」
「……千夏君?」
途中から円華の言葉は一切千夏の耳に入らなかった。
あまりに恥ずかしい言葉を告げられてしまい、千夏の受け入れのためのキャパを超えてしまったためだ。顔を真っ赤にしながらフラフラしだした千夏の姿に円華はこれ以上ないほどに慌て、倒れそうになった彼の体を抱き留めるのだった。
「……ちょっと刺激が強かったかしら」
色々と初心な千夏にはまだあまりに刺激が強すぎたみたいだ。
目を回してしまった千夏をソファまで連れて行き、彼の頭を膝枕する形で円華は寝かせた。
「ごめんね千夏君、ちょっと距離を詰めすぎたわ」
少しだけ反省だと円華は己の攻略本に刻んだ。
さて、そんな風に眠る千夏の頭を撫でながら円華は今日のことを思い返した。いつもと同じように大学に行って講義を受ける変わり映えしない日常、それを侵食するように彼らが近づいてきた。
『よう円華、寂しくしてっか~?』
『やっほ~♪ 捨てられた気分はどうなの~?』
まだ人が多いのに堂々としたものだと円華は思った。まあそんな風に絡まれても円華は特に何も気にしないし、頭の中は千夏のことでいっぱいだった。だからこそ全く気にすることなく反応しなかったが、どうもその姿は彼らには生意気に見えたらしく女の方が生意気なのよと言って頬を叩いたのだ。
『……なによ』
何も言わずただ見返しただけなのに女は一歩退いて、流石に目が集まったこともあって元彼と一緒に足早に去っていった。
「……ほんと、視界に入れるだけでも不愉快だわ」
自分でも信じられないほど冷たい声が出た。
それを自覚した瞬間円華はいけないと首を振り、再び千夏に目を向けた。安らかに眠るその姿を見るだけで円華の心は晴れていくのだから。
「千夏君から見る私は優しいお姉さんにでも見えてる?」
当然返答は返ってこない、妖しく笑みを浮かべた円華はこう言葉を続けた。
「私が優しいのは千夏君だけよ。私はあなただからこそ傍に居たいの。あなたの役に立ちたいし、私もあなたに甘えたい……深い沼に嵌るように、抜け出せない闇の底にあなたと沈みたいわ」
円華の目には千夏しか映っていない。深淵を見通したような暗い瞳の奥に差す光は正に千夏だった。
「……千夏君、私……あなたのことを逃がさないからね? 私も自分でビックリしているくらいにあなたに夢中なの。でも安心して? 逃がさないと言ってもあなたの意志を無視するつもりはないから――ただ千夏君も私に夢中になってもらうだけよ」
千夏の頬に顔を近づけ、円華はチュッとキスをした。
本来なら唇にしたいところだが、そこはまた次の機会だと円華は笑みを深めた。
「……あぁ素敵。こんな日々が待っていただなんて♪」
ただただ一人の男性を見つめながら彼女は妖しく笑っていた。
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