宿ったのは隷属心と母性
千夏の朝は目覚ましの音と共に始まる。
それなりにうるさい音なのだが、寝坊して遅刻するよりはマシだと思っているからだ。しかし、今日に関してはすぐに千夏の脳は覚醒した。
「……っ! 円華さん!!」
今日も会えるから嬉しい、そんなものではなく単純に円華が元気にしているかどうかを確認したかった。もしもあのロープを再び吊るして……なんてことを考えてしまったらもう駄目だった。
千夏はパジャマのまま顔を洗うことも忘れて部屋を飛び出し、そのまま円華の部屋に向かった。逸る心を抑え、インターホンを鳴らすと中から足音が聞こえた。
「……あ、良かったぁ」
その足音はつまり、円華がちゃんとそこに居るということだ。
「……って俺着替えてねえし顔も洗ってない!」
っと、そこで自分の状態に気付いてしまった。だが時既に遅し、無情にも扉が開いて円華が姿を現した。
「千夏君? おはよう……どうしたの? 何かあったの?」
綺麗な黒髪を揺らし、サファイアブルーの瞳に千夏を映した円華が近づいた。どうやら千夏の様子から何かあったのではないかと思ったらしい。円華のことが心配になりそれが取り越し苦労だったわけだが……もしかしてと円華はそれを察したようだ。
「あ、もしかして心配してくれたの?」
「……その……はい。起きてすぐだったんですけど、円華さんがそこにちゃんと居てくれるかを確認したかったんです」
ま、全然大丈夫でしたけどねと千夏は苦笑した。そのせいで着替えず顔すらも洗ってないことを伝えた瞬間、千夏の目の前が真っ暗になった。同時に口元は途轍もない柔らかいものに覆われ、更に脳を溶かすほどの甘い香りに包まれた。
その理由は簡単で、ギュッと円華に抱きしめられたからだ。
頭の後ろにも腕を回され、完全に逃げられない状況でありながらも千夏は天国を味わっていた。恥ずかしさと興奮を呼び起こす女体の神秘、それを身を持って朝から堪能することになった。
「どれだけ……どれだけ優しいのよもう。ねえ千夏君、喜んでくれるか分からないけどあなたの為にお弁当作ったの」
「え? 本当ですか?」
「えぇ。学校で食べてくれる?」
気になる女性からの手作り弁当、その響きに千夏のテンションが上がった。
あまりの嬉しさに頷くと、円華は千夏を部屋に招いた。昨日に続いての訪問だが、やっぱり中に入ると甘い良い香りが漂ってきた。
「中身はどうかお昼に確認してちょうだい。それまで楽しみに……ね?」
「あ、はい……」
渡されたお弁当の包み、それは本当に重かった。重量というわけではなく、初めて家族以外のしかも異性から作ってもらった弁当だからだ。その重みもをしっかりと受け止めた瞬間、意識せずともあまりの嬉しさに千夏の頬が緩む。
「はうっ!?」
その瞬間、円華がその場にへたり込むように腰を下ろした。
突然のことで当然千夏は驚き、どうしたのかと駆け寄るが円華は気にしないでと言ってゆっくりと立ち上がった。
「誰かに喜んでもらえるって素敵だわ……ねえ千夏君、私思ったの」
「何をですか?」
顔は少し赤いまま、その瞳をジッと向けてくる円華はこう言葉を続けた。
「私が元彼に抱いていたのは恋なんかじゃない、あんなものは恋でも何でもなくてただ私が馬鹿だっただけ。だからもう大丈夫よ、私はちゃんと前に進めるわ」
ちゃんと前に進める、笑顔と共に伝えられた言葉は千夏を安心させた。
笑顔で大丈夫かどうかを判断できるほど千夏は鋭くないが、それでもこれならもう大丈夫だと千夏に思わせるには十分だった。
「それに」
円華はもう一度千夏に顔を近づけた。
むわんと広がる香りに再び千夏の体温が急上昇する。そんな千夏の様子を知ってか知らずか、ニコリと笑った円華は最後に千夏をまた抱きしめた。
「傍に居てもいいって言ってくれたものね千夏君は。だから大丈夫……私の生きる意味はちゃんとあるんだから♪」
「……円華さん?」
ルンルンとした言葉に秘められた僅かな仄暗さ、それに気付きかけた千夏だが円華の笑顔を見ればそれすらも気にならなくなってしまう。学校頑張ってね、その言葉に頷いた千夏は部屋を出た。
「……お姉さんの色気ヤバすぎるだろ」
当然、そう呟くのもお約束だった。
『っ……ん! ち……くんっ!!』
「?」
部屋を出てすぐ、円華の部屋からくぐもったような声が聞こえたが……そこまで考えて流石にそろそろ出ないとマズいなと思い、千夏は部屋に戻って準備を済ませてから学校に向かうのだった。
千夏が出て行ってからすぐ、円華は体の火照りを発散させるように玄関の扉に背中を預ける形で自らの体を弄っていた。
「……っ……千夏君!」
千夏の為にサプライズでお弁当の準備をしていたのは確かだが、まさかあんな風に慌てた様子で来てくれるとは思わなかった。それはつまり、それだけ千夏が円華のことを心配してくれたということだ。
それだけでも嬉しかったのに、作ったお弁当を見てあんなに頬を緩ませた顔なんか見せられたらもうダメだった。胸の中から溢れる愛おしさを押し留めることが出来ない、どれだけ今すぐに千夏ともっと触れ合いたいという気持ちを抑えつけたことか。
「……大学に向かう前にこれじゃあダメね私ったら」
温かなモノに包まれた指を眺め苦笑した後、円華も準備を始めた。
今日は千夏の為にお弁当を作ったが、出来ることならこれから毎日作ってあげるつもりだった。千夏の母に面倒を見たいという旨のことを伝えたいのもあって、もう円華はとにかく千夏の為に尽くしたかった。
「千夏君……こんなにも近くで私を見守ってくれていた人……そうよね。千夏君はずっと私を見守ってくれていた」
そしてまた考えが跳躍した。
千夏が隣に住んでいるのも全て、この時の為だったんだと円華は笑みを浮かべる。
「今度は私がお返しをするからね。私の心を守り、傍に居てほしいと言ったあなたに全て尽くすから。あなただけの円華になるから……だから千夏君、あなたを想っていいわよね? あなたに愛されてもいいわよね?」
妄想の中の千夏が頷くと、それだけで円華は体を震わせるほどの快感を得た。
円華自身今まで心が死に掛けていたせいで気付いていないが、彼女の心の奥底に持っているのは愛する者に尽くしたい隷属心だ。それは今まで姿を見せていなかっただけで、千夏と触れ合うことによって本当の意味で呼び覚まされた。
「千夏君の為にも頑張らないとね。あなたを私に……溺れさせてあげるから」
そして、そんな隷属心とは別に宿ったのは途方もない母性だった。
あんなにも漢らしい一面とは別に、些細な触れ合いでも照れる姿は円華の母性を刺激した。母性と女の両面を刺激されたらそれはもう円華といえど抗うことは出来ないというものだ。
「今日は夕飯にも誘おうかしら……そうねそうしましょう。帰りに買い物に行くとして……すき焼きでもしましょうか♪」
千夏と囲む御馳走はとても美味しいはずだと、今から円華は胸を躍らせた。
大学に向かえば元彼の顔も見ることになるし、それこそその元彼が引っ掛けた相性の良い女というのも目にすることになるかもしれない。だが今の円華にとってそんなものは心底どうでも良かった。
実を言えば、いくら元彼があのような物言いを平然とする屑とはいえどすぐに千夏のことを想うのは尻軽なのでは……なんてことを考えもした。だが千夏に向ける想いは今までの比ではない、だからこそこれこそが本当の愛なのだと円華は無理やりにでも自分を納得させた。
【あとがき】
みなさま、改めまして本作を読んでくださりありがとうございます。
今作もキーワードは溺れたくなる愛でございますよろしくお願いします。
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