心を絡め取る優しさ

 佐伯円華にとってその日は正に運命だった。

 今はもう大切とも言える素敵な男の子、年下だが必死に円華を繋ぎ止めようとしてくれた男の子と親しくなれたのだから。


「……はぁ♪」


 先ほどまでのことを思い返し、円華は熱い吐息を零した。

 そろそろ時間も遅くなったということで、隣の部屋に帰ろうとした千夏を円華は引き留めた。とにかく離れたくなかった、とにかくずっと抱きしめていたいと思ってしまったからだ。


 元彼には決して抱かなかった感情、それに困惑しながらも円華はこれが本当の恋なのだと結論付けた。


『その……隣に居ますからいつでも会えますよ! 俺も円華さんが許してくれるならいつだってこっちに来たいです!!』

『あら、それならずっとこっちに居ればいいのに』

『……それは……えっと』


 楽しい、幸せ、その感情が溢れて止まらなかった。

 生きてほしいと切実に願う表情も良かったが、やっぱり年相応に照れる姿も更に良い。かっこいいとも思ったし、可愛いとも思った。もう既に円華は千夏のことをどうしようもないほどに夢中になっていた。


「……千夏君……千夏君!」


 隣の壁を隔てて彼がそこに居る、この壁を憎々しく思いながらもすぐ近くに千夏が居るという幸福に頬が緩む。


 さっきも口にしたように、千夏が望むならずっとこっちに居たっていい。そうは思ったが、あまり自分だけ希望を千夏に伝えてもダメだと円華は踏み止まった。そうやって気持ちを押し付けては千夏に迷惑だと、だから円華は小さなところから攻めることにしたのだ。


「……そう、これが恋なのね。こんなにも相手のことを想い、相手に想われたい、求めたいし求められたい……尽くしたい……あぁ、これが恋!」


 元彼が醸し出す偽物の優しさに惹かれた円華だったが、今となってはそれこそ忘れ去りたい過去だった。とはいっても既に元彼のことはそこまで考えていない、明確な優先順位が円華の中で定義されたからだ。


 一に千夏で二に千夏、三に千夏と来て四に千夏……それが円華の優先順位だ。


「千夏君……私、あなたの為に生きるから。あなたに一生尽くすから……だからお願い、私を捨てないで。あなたに捨てられたらもう……私はダメだから」


 何か縋りたい、何かに頼りたい、それは前と何も変わらないじゃないか。そう円華は思ったが心持ちは全く違う。千夏のことを想うだけで心が晴れる、どんな辛いことも吹き飛ばしてくれる……だからこそ、円華は千夏のことしか考えられない。


「千夏君……私の胸に抱かれた時凄くドキドキしてた……嬉しい♪」


 千夏を胸に抱いた時、彼は頬を赤くして照れていた。

 間違いなく意識していたのが分かるし、今まで話していた時もチラチラ胸元に目を向けていたことは気づいていた。だが不快に思うことはなかったのだが、その理由も今になってようやく解明した。


「そうよね。こうなることが運命だとしたら私が千夏君に対して不快になることはあり得ないもの。何よもう、その時から私は知らずに千夏君を求めてたんだわ♪」


 もう全ての考えが跳躍してしまう。

 友人が彼女の言葉を一から全部聞いていたら落ち着けと言うはずだ。だが更に質が悪いのが決して円華は自分の気持ちを押し付けようとは思わない、ある程度は縛りたいと思うがあくまで千夏のことを最優先としている。そこが束縛とは違う仄暗くも真っ当な愛の姿だった。


「……っと、そうだわ」


 そこで円華はスマホを取り出し、メモ用紙に書かれた番号に電話を掛けた。

 しばらく待っていると優しげな女性の声が聞こえてくるのだった。


「もしもし、突然申し訳ありません、千夏君の隣の部屋に住む佐伯と申します」


 そう、円華が電話を掛けた先は千夏の母親だった。

 突然の電話に驚いたのか、とても困惑しているようだが円華は順を追って説明するようにこうして電話をすることになった経緯を話した。


「実は千夏君に悩んでいるところを助けていただきまして、それでそのお礼と言いますか私に出来る範囲で千夏君に何かしてあげたいと思ったんです」


 悩み……流石に死のうとしたところを止めてもらったとは素直にいうことはなかったが概ね間違えてはいない。


「千夏君も一人暮らしみたいですし、ご飯とか……はいそうですね。千夏君の気が向いた時に作ってあげたいなって……はいそうです。千夏君ももしかしたら寂しい時があるんじゃないかって思って……はい……あ、本当ですか?」


 まあ色々と口にしているが、まずは外堀を埋めよというやつだ。

 別にこうして千夏の母親に連絡をしたのは勝手なものではなく、お礼も兼ねて少しお母さんとお話をしたいと言ったら千夏は喜んで連絡先を教えてくれたのだ。


「はい……ふふ、いえいえ……全然大丈夫です。任せてください――千夏君のことしっかり見守らせていただきます。はい……はい!」


 円華には全く悪意はない、だからこそ千夏の母親も円華のことを信用した。そもそも円華の喋り方と発する声は明らかに優しさを孕んでいるため、疑うということがどうも抜けてしまうみたいだ。


「そうよね。私は千夏君に一生を捧げたい……でも、同時に甘えてほしい。私のことをとても頼ってほしいわ」


 自分も千夏を求めるが当然同じくらいに求めてほしい、自分に出来る全てを持って千夏に応えることを約束する。人知れず円華はそう誓った。


『なあ、君凄く綺麗だね。俺と少しお話しないか?』


 そう言って近づいてきた元彼のことは本当にどうでもいい。小さなことで癇癪を起こす奴のことはもう考えたくもない、嫌いなタバコを平気で部屋の中で吸うのもごめんだ……何より、なんてどうでもいい。


「……千夏君……千夏君っ」


 初めて訪れた本気の恋に体が震え、知らず知らずに胸元に手が伸びる。真に愛する人を想い体を慰めようとしたところで、円華のスマホが着信を知らせた。相手は円華の母親だった。


「……お母さん?」


 電話に出ると、いつものように調子はどうかと聞かれた。

 ……もしかしたらこうして電話に出ることもなかった未来があったのかもしれないと思うと申し訳ないが、今の円華はもう大丈夫だと笑みを浮かべる。そして、母親にこう彼女は告げるのだった。


「ねえお母さん……私、どうしようもないほどに好きな人が出来たの」


 その言葉に電話先の母親は嬉しそうにしていた。

 実を言えば、元彼のことは一切家族には知らせていない。離れずに居たとしても彼を両親には絶対に会わせたくなかったからだ。でも、千夏のことは違う……彼のことはすぐに伝えたかった。


 どんなに素敵なのか、どんなに優しいのか、それを円華はマシンガンのように母親に話した――当然、母親は今日一日でここまで想うようになったことを知らない。


「それでね……っ……ぅん♪ あぁううん、何でもない……何でも」


 母親と電話する中、円華はずっと千夏のことを想いながら胸を触っていた。





 さて、そんな風に円華が母親と話をしている中千夏はと言うと……ずっと円華のことが気になっていた。


「……本当に大丈夫だよな?」


 また何かあって自殺に踏み切るのではないか、それがとにかく心配だった。だが千夏にはもう大丈夫だからと笑顔を浮かべた彼女を信じることしか出来ないのだ。


「……いい匂いだったな。それに……っ」


 円華に抱きしめられた感覚を思い出し千夏は赤面した。

 それだけの衝撃だったし、それだけの素晴らしい瞬間だったのだから。


「円華さん……俺なら絶対に……」


 あんな男のようなことはしないのに、そんな呟きは小さく消えて行った。

 今日はもう会えないが、それでも明日にはまた会える。それを楽しみに思いながら、僅かな不安と共に千夏は夜を過ごしていく。



 かくして物語は動き始めた。

 気になる女性を助けたいと願った少年、そんな少年に助けられ心を絡め取られてしまった女性、二人を取り巻く物語はまだ始まったばかりである。

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