支えになる存在は近くに居た
千夏にとって、隣に住む円華は憧れの存在だ。
だからこそ彼女から聞いた話に怒りを抱く。しかし、ここで怒りを露にしたところで何も変わりはしない。悔しい話だが、既に件の男とは別れたようなものだと円華から伝えられたからだ。
「私ね、本当に寂しかったんだと思う。大学に進学してから地元を離れて、家に帰ったら一人ぼっちだからそれで……」
「……………」
家に帰ったら一人ぼっちで寂しい、その気持ちを少しとはいえ千夏は理解できた。
彼は今年高校二年になった段階で父親のとある提案に頷いた。それは将来の為に一人暮らしに慣れてみないか、そんな提案だった。
一人暮らしに不安はあれど、興味はあったので千夏は頷いたが……確かに寂しさを感じないわけではない。それでもいつでも会いに行ける場所に実家があるのでその寂しさも大したものではないが。
「……それで悪い男と付き合ったら世話ないけどね」
あははと、円華は自分を恥じるように笑った。
確かに話を聞く限り相手の男は最低だった。円華という女性を否定する言葉を平然と使い、更にはけじめを付けることもなく別の女と関係を持つような屑……正直なことを言えば、何故こんなにも綺麗で優しい女性を捨てることが出来るのかと千夏は思った。
「……ねえ千夏君」
「っ……はい」
円華に呼ばれ千夏は目を合わせた。
相変わらずその瞳には絶望が見え、まだ安心できない様子なのが良く分かる。今はこうして踏み止まってくれたとしても、自分が帰った後に本当に首を吊ってしまうのではないか、そんな不安が消えてくれない。
「……あ、俺また」
死んでほしくない、だからこそ涙が出てくる。
こんなにも涙脆かったかなと思っていると、千夏の手を優しく円華の両手が包み込んだ。悲しみを吹き飛ばすような安心感を持つ温もり、ずっと握っていて欲しいとさえ思ってしまう。
「千夏君は本当に優しいわ。そんな風に泣いてくれるなんて……これじゃあ私、もう死ぬだなんて言えないじゃない」
「……佐伯さん」
片手を離し、千夏の瞳から流れた涙を円華は拭った。
死ぬだなんて言えない、その言葉は千夏にとって当然嬉しいことだ。だけど、やっぱり安心出来ないのも確かだった。
「……佐伯さん、俺……佐伯さんと話をするのが好きです」
「千夏君?」
恋愛と言う意味でも好きだがそれは今は置いておいた。
千夏はゆっくりと円華を見つめて話し出した。
「俺と佐伯さんはただお隣さんっていう関係しかないですけど、朝にあなたに会えたらその日を頑張れる気もしますし、学校から帰って来た時に会えたらあぁ今日も頑張って良かったってそんな風に思えるんです」
「……千夏君」
聞く人が聞けば完全に千夏の好意は丸分かりだろう。しかし、今の千夏にはお前好きなのかよと誰にも茶化すことの出来ない雰囲気があった。頬を赤くした円華は特に口を挟むことなく、真っ直ぐに千夏を見つめて話を聞いていた。
「そんな人が居なくなったら寂しいです……何か事情があって引っ越しをするとかなら仕方ないですけど……死んじゃうのは悲しすぎます」
「……………」
「勝手を承知で言わせてください……死なないでください佐伯さん。俺……佐伯さんに死んでほしくないです……ずっとここに居てほしいですよ……っ!」
死んでしまったら二度と会うことは出来ないのだから。
何度も言うが、死を選ぶというのはそれなりの理由が当然ある。自殺することはダメだと分かっていても、その人がそこまで追い込まれた証でもあるのだ。それでも千夏は自分勝手を貫き通した――ただ彼女に生きてほしかったから。
「……っ……全くもう私ったら。年下の子を泣かすなんて!」
「佐伯さん?」
立ち上がった円華は千夏の正面に立ち、彼を優しく胸元に抱きしめた。千夏は当然その抱擁に驚き困惑するものの、決して円華は離してくれなかった。思春期の男子だからこそ憧れの一つでもあった大きな胸、それは恐ろしいほどに柔らかく良い香りがした。
「……ほんと、なんであんな男と付き合ったのかしら。自分が馬鹿みたい」
円華は心底自分に呆れ果てたような声でそう呟いた。
その声を聞いて千夏もその通りだと頷いた。とはいえ、千夏にとって円華のことは知らないことの方が多い。だからこそ彼氏の方も何かあったのかもしれないが、それでもここまで気になる人を追い詰めた時点で印象は最低最悪だ。
「……あ、ごめんなさい私ったら。つい」
「あ……いえ」
ハッとするように円華は離れたが、少しだけ名残惜しかった千夏だった。
「……千夏君は私に生きててほしいの?」
「もちろんです!」
当然、その問いかけには力強く頷いた。
あまりの力強さに円華は目を丸くしていたが、必死な様子の千夏に何かを思ったのか分かったと頷いた。
「……何よ、近くにこんな素敵な子が居るじゃない」
「佐伯さん?」
「ううん、何でもないわ」
顔を上げた円華はいつも通りの様子だった。
さっきまでの暗い様子は見られず、その姿に千夏は心からホッとした。すると冗談交じりに円華はこんなことを口にするのだった。
「もしも、私が絶対に死ぬって言ったらどうしたの?」
それはとても意地の悪い質問だった。きっと円華自身も分かっていることだろう。そう問いかけられた千夏は一旦考え、そして恥ずかしそうにこんなことを口にするのだった――それがある意味、呪いの言葉とも知らずに。
「その……俺の為に生きてください……なんて生意気を言ったかもしれません。生きる意味を失ったのだとしたら、俺の為にどうか……なんて告白紛いなことを――」
その言葉に、円華の目の色が変わった。
(……何よこの子……なんでこんなに優しいの?)
円華は心の中でそう呟いた。
目の前に居る千夏は恥ずかしそうにそんなことを口にしたが、今の言葉は正に円華の心に突き刺さった。傷ついた心を癒すように掛けられた優しい言葉はともかく、必死に生きてほしいと願う彼の姿は円華にとても眩しく見えた。
(……この子は私が生きることを望んでいる……こんなにも誰かに自分のことを望まれたことがあったかしら)
今となればあの男がそもそも屑だったのは理解できるが……まあタイミングがあまりにも良く、同時にあまりにも悪かったのだ。
傷ついた心で死のうとまで考えるほどに弱っていた円華を引き上げる千夏の言葉と優しさは、良い意味でも悪い意味でも円華が千夏を意識する結果になった。
「……千夏君は私に生きろって、そう言うのね?」
「はい……生きててほしいです」
生きててほしい、千夏にそう言われたことが本当に嬉しかった。
もちろん心配してくれる友人は居たが……それでもこんなにも必死に、こんなにも感情を露にして円華を求めてくれた存在は今まで居なかった。
(……あぁ、そっか。あの男との出会いも、こんなにも傷ついたのも……全部千夏君と私を結ぶためのモノだったんだわ)
円華の中で考えが一気に跳躍した。
そう自覚した瞬間、一気に目の前の存在が愛おしく思えてならない。更には千夏が冗談も交えて口にした言葉、俺の為に生きてほしいのワードが何度も何度も脳内で木霊しているほどだ。
「千夏君、私……生きるわ。もう死ぬだなんて言えないもの」
「本当ですか!?」
「えぇ……だから」
だからこそ、確認の意味も込めて円華は問いかけた。
「私、千夏君の傍に居てもいい?」
「あ……もちろんです!!」
「っ……」
あぁ素敵だなと、人知れず円華は体を震わせた。
今の言葉に秘められた真の意味を千夏はきっと理解していないだろう。だがそれでも円華には関係ない、もう言質は取ったのだから。
「……良かったぁ」
安心したようににへらと笑みを浮かべた千夏に下腹部が疼いた。
我慢出来ずに再び円華は千夏を抱きしめた。こうしていると凄く安心できるのは当然として、何ならこれから一生こうしていたいと思わせるほど……円華はもう、この温もりを永遠に離すことはしないのだと嬉しそうにする千夏を見つめて思った。
「ねえ千夏君、私の名前呼んでくれない?」
「……え!?」
「呼んで?」
耳元で囁くと、顔を真っ赤にしながらも千夏は小さく呟いた。
「……円華さん?」
「っ!?」
円華は更に強く、ギュッと千夏を抱きしめるのだった。
私はもう、この子から離れられない。
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