第三話 回想 ~ 私のやりたいこと ~

 入学式の翌日、麻世は朝からご機嫌だった。今日から、氷樹と一緒に学校に通えるのだ。


「おはよう、お兄ちゃん」

「おはよう」

「今日からお兄ちゃんと一緒に行けるから嬉しいな」

「そうか」

「二人とも学校が近くて良かったわ。もし帰りが遅くなりそうだったら氷樹、一緒に帰ってくれる?」


 母親が言った。


「ああ」

「ありがと、お兄ちゃん」


 麻世は嬉しそうに言った。


「いってきまーす」


 麻世は氷樹の手を握って歩いた。


「なんだか不思議な気分。お兄ちゃんとこれから毎日一緒に学校に行けるなんて」

「そうか」


 麻世は幸せをかみしめていた。このために――この時のために自分は今まで一生懸命に頑張ってきたのだ。この瞬間を実現できたことを自分に感謝した。


「私、本当にずっとずっとお兄ちゃんとこうして一緒に学校に行くことが夢だったの」

「……」

「ずっとお兄ちゃんと一緒にいられなくて、寂しかった」


 麻世がきゅっと氷樹の手を握りなおす。

 麻世は数年前の出来事を思い出していた。受験を巡って両親と口論したあの日――



 ◇ ◇ ◇



 ―― 約二年前


 とある日の夜、麻世は両親の前で話し始めた。


「私、別の中学に行きたいの」

「えっ?」


 両親は突然の娘の言葉に戸惑った。


「どういうことなの? 麻世」

「麻世、今の学校で何か問題があるのか?」

「ないよ」

「お友達もたくさんいるんでしょう?」

「あのね、私、別に今の学校が嫌だとかそんなことじゃないの。ただ、自分で通う学校を自分で決めたい、そう思っただけ」

「……」


 両親は顔を見合わせた。


「しかし、せっかく紹蓮女子に入れたのに」

「それは……」

「そうよ。それに麻世、あなたの成績だったら全く問題ないわ。お父さんもお母さんも、麻世のこととっても誇りに思っているの」

「でもそれは……」


 麻世がつぶやくように言った。


「ねえ麻世、あなたはこんなに優秀なんだからもったいないわ」

「だから……」


 麻世はまた何かを言いかけた。


「麻世、もう一度よく考えてみなさい」

「考えたわ」

「もっと、よくだ」

「考えた。それに、明日だもの。三者面談」

「でも、お母さんに何も相談してくれなかったじゃない」

「反対すると思ったから」

「でも何か言ってくれないと……」

「なあ麻世、そしたら、今度はどんな中学に行きたいんだ?」

「私がここだ、って思うところ」

「それじゃあ説明にならないだろ?」

「まだ決めてない。でも、これから決める」

「これからって――今から中学受験の勉強をしながら志望校を決めるの?」

「決めていなくても勉強はしておけば大丈夫だよ」

「そう簡単じゃないわ」


 母親自身も中学受験を経験しているので受験の大変さを知っていた。


「志望校に沿って勉強の計画を立てるものなの。思ったよりも大変なことなのよ?」

「……」


 もし、違う中学に進みたい本当の理由を言えば、反対されるだろうと麻世はわかっていた。けれども何が何でも説得しなければならないのだ。

 少なくとも紹蓮女子の周りには、高校で外部募集している学校は一校もない。だから中学生になっても氷樹と離れてしまうのは必然であった。


「……」

「麻世、わざわざ受験する必要もないだろう? 紹蓮女子は全国でもトップクラスの進学校だ。入りたくても入れない子だってたくさんいるんだぞ?」

「じゃあ入りたくないけど入った子は?」

「お前は今の学校に入りたくなかったのか?」

「小学一年生になるときの気持ちなんて知らない。でも、私はお兄ちゃんのいる学校に行きたかった」


 麻世はそう口に出してからハッとした――つい本音をもらしてしまった。


「……麻世、あなたもしかして……氷樹がいる学校に行きたいの?」

「……」


 母親は気が付いたように言ったが、麻世は口ごもった――なんとかごまかさなくてはならない。


「……どのみち私が中学生になるときにはもうお兄ちゃんは高校生になるんだから関係ないでしょ」

「……」


 そう、まさにそうだった。麻世は言ってから思い直した。小学校で一緒になれなかったから、もはや年齢の三つ離れている氷樹とは同じ学校に通うことができなくなってしまったのだ。

 すると、急に麻世の心が波立った。


「それともお兄ちゃんのいる学校に行っちゃいけないっていうの?」

「麻世……」

「そうよ。私、お兄ちゃんと一緒に学校に行きたかった。毎日、私は離れた学校で、お兄ちゃんと家を出る時間も違って――独りで――」

「麻世、そのことはもう……」


 父親は以前のように麻世と口論になることを懸念した。過去にもこのことで何度か麻世と口論することがあったのだ。


「『もう』って? だって私、中学に上がるころにはお兄ちゃんは高校生で、別の学校に行っちゃうんだよ?  一回もお兄ちゃんと一緒に学校行くことができなくて――」

「麻世――」

「学校が遠いから帰ってきてもお兄ちゃんと遊べないし、どこにも行けなかった――」


 麻世の声が上ずり始めた。


「麻世――落ち着きなさい――」

「私は私のやりたいこと何一つできなかったの!!」


 麻世はテーブルを思い切り叩いて自分の部屋に駆け出していってしまった。


「麻世!!」


 慌てて両親が追いかけたが、麻世はバタン! と自分の部屋のドアを閉めてしまった。


「麻世! 開けなさい!」


 父親が扉をドンドン、と叩いた。


「麻世!」


 いくら呼んでも中から返事は聞こえてこなかった。

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