第三話 立花麻矢

 立花たちばな麻矢まやは春の明るい陽射しを浴びながら「よしっ」と言って駅に向かって歩いていた。

 麻矢は小学校を卒業したばかりで、来月からは地元の中学ではなく私立の中学校へ進学する。これまで勉強漬けだった彼女にとって、中学に合格してからは解放された気分だった。

 そして今日は、卒業して学校が別々になってしまう友達と遊びに行く日だった。


(あっ――)


 麻矢はいま家から出てきた人物――氷樹を見て思わずそばの電柱の陰に隠れようとしてしまった。

 地元の中学校に通っており、麻矢の小学校の女子の間でも噂になっているイケメンの中学生――去年、麻矢の小学校と近くの中学校との交流会があり、その際に中学の先輩たちが小学校を訪れたのだ。その時に彼がいて、たちまち女子たちは色めき立っていた。

 とにかくかっこいいし、雰囲気もすごくクールで大人っぽくて一目惚れしてしまうくらい素敵な先輩だった。

 そして、麻矢は一度だけ氷樹と会ったことがあった。雨の日に傘を忘れて家まで走って帰る途中、転んでしまい怪我をした。するとその時にちょうど氷樹が通りかかり、ハンカチを貸してくれて怪我の処置もしてくれたのだ。

 麻矢はひたすらに氷樹に見とれていて痛さも吹き飛んでしまっていた。それ以来、いつも彼のことを想うようになってしまった。


(あーあ……あんな素敵な人が同じ学校にいたらなあ)


 そんなことを思っていると、氷樹のすぐ後ろに自分と同じくらいの年齢の女の子がいた。


(あれっ?)


 麻矢は思わずその女の子に注目した。


(あの子……どこかで見たような……)


 少し離れたところからでもよくわかるくらいに可愛い女の子で、どちらかというと美人の類だ。確かに知っている気がする。


「そうだ――麻世ちゃんだ!」


 麻矢が思わずそう声に出して言うと、向こうがこちらに振り向いた。どうやら聞こえてしまったらしい。

 すると向こうにいた女の子も気が付いたような表情をして、麻矢の方にやってきた。


「麻矢ちゃん、久しぶり」


 女の子――麻世は麻矢を見て微笑んで言った。


「やっぱり麻世ちゃんだったんだ」


 麻矢と麻世は受験で通っていた塾が一緒だった。クラスこそ麻世とはレベルが違うので通常は別々のクラスだったが、冬期講習の時に何度か一緒のクラスになり、家も近くに住んでいて名前も似ているということで仲良くなっていたのだ。彼女が飛び抜けて成績が良く、そしてあの名門紹蓮女子に通っていることも知っていた。


「――って、この人は……」


 麻矢は麻世の隣にいる男――氷樹を見て言った。


「私のお兄ちゃんだよ」

「ウソ――あっ」


 麻矢は思わず口元に手を当てて氷樹に「ごめんなさい」と言った。


(この人が――麻世ちゃんのお兄さんだったなんて……!)


 なんという偶然だろう――みんなが遠くから眺めていた憧れの人は、自分の塾の友達の兄だったのだ。


「こっ、こんにちは! 私、麻世ちゃんと塾が一緒で……」

「……」


 氷樹は麻矢を見ていた。麻矢は思わずその表情に心奪われそうになってしまった――なんてカッコいい人なんだろう。


「お前は……」


 氷樹は目の前にいる麻矢があの時の小学生だということに気が付いた。


「……あの時はありがとうございました」

「お兄ちゃん、麻矢ちゃんを知ってるの?」

「いや、ちょっとな……」


 氷樹はあの雨の日の出来事を話した。


「ハンカチも結局返せずじまいで……」

「気にしなくていい」

「え、えと――私、立花麻矢といいます。北嶺ほくね小学校に通ってて……」

「そうか。麻世の友達だったんだな」


 素敵な声――麻矢は再び氷樹に見とれていた。が、そこで麻矢の携帯に着信音が鳴った。


「あっ――す、すみません。失礼しました――麻世ちゃん、またね」


 そう言って麻矢はあたふたしながらその場から離れていった。



 ◇ ◇ ◇



「お前の知り合いだったのか」


 氷樹はビリヤードの店に向かう途中、さっきの麻矢のことについて訊いていた。


「ウン。ちょっと同じクラスになって。それで家がとても近かったから」

「そうなのか」


 氷樹たちはいつものビリヤード店の入っているビルに到着した。

 よくありがちな年季の入ったビルにあるビリヤード場。いわゆる大型アミューズメントパークにあるような小綺麗な場所ではない。むしろ熟練者が通うような、そんな雰囲気の店だった。

 氷樹は小さいころに父親に連れられて来たのがきっかけでビリヤードを始めた。中学生になるとマイキューも用意して一人で打ちに行くこともあった。


「二人で」


 氷樹はカウンターの店主にそう言って料金を払った。


「妹と一緒とは珍しいね。そうか、学校が春休みなんだな」


 ここの店に中学生が来るのは氷樹くらいなので、店主は当然氷樹のことを知っているし、顔なじみだった。


「妹が、どうしてもって」

「こんにちは!」

「久しぶりだね。お嬢ちゃん」


 こんなビリヤード場に中学生と小学生の妹が来るのは半ば場違いな感じはあったが、氷樹は中学生にしてはかなりの腕前だったし、麻世も基礎は完全にできている。

 早速二人は慣らしを始めた後にバンキング(ショットをして反対側のクッションに当て、自分の方のクッションに近い方に球を止めた方が順番を決められる)を行う。

 氷樹のショットは正確に手前のクッションから十センチ程度のところで球を止めた。


「さすがお兄ちゃんだねっ」


 麻世は尊敬するように言った。


「そういえばお兄ちゃんの学校は共学なんだっけ」

「そうだな。ただ……理数科だからほとんどが男子だ」

「そっか。そうだったよね。よかった」


 麻世はにっこりと微笑む。


「……ただ、学校が楽しいとは限らないが」

「え?」

「正直、高校に行くかはずっと迷っていた。楽しいとも思えなかったからな。言われるままに受験はしたが、正直なところどうしたいのか自分でもわからない」

「そんなことないよ! 中学がつまらなかったならそれはそれでいいじゃない。高校になったらリセットになるでしょ?」

「……」


 リセット――人間関係をリセットさせたいわけではない。むしろ今の周りの友達はみんな自分に対して友好的だ。単に自分の方がつまらないと勝手に思っているだけなのだ。


「……とにかく、まだわからない」


 氷樹はそれだけ言うと、球をショットした。

 その間、氷樹は何となく麻矢のことを思い出していた。女の子の知り合い――ましてや小学生の女の子とだなんてありえないと思った。けれども何か彼女の印象が氷樹の中で残っていた。


(気のせいだろう)


 氷樹はそう思い込んで、そのうち忘れるだろうと思った。

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