第二話 妹
春の訪れの兆しを感じるころ――とある公立中学校では卒業式が行われていた。生徒の中には学校生活を思い出してか、泣いている者もいる。
卒業式が終わって教室に戻ると生徒たちは、中学生活を振り返って別れを惜しんでいる――その光景を見ても氷樹は全く感傷に浸ることは無かった。一刻も早くこの教室という空間から抜け出したかった。
それでも氷樹に話しかけるクラスメートは絶えなかった。感情をほとんど表に出さないし全く友好的でもないにも関わらず、女子だけでなく男子からも慕われていた。
友好的ではないというのは、嫌われることをしているわけではなく、何かお願い事をされれば断ることなく淡々とこなすし、男子から見れば素直ないいやつで、女子から見ればクールで心惹かれるというのだから滑稽だ。
だから、「一方的な」彼の友人は多かったのだ。
「ついに卒業か。高校はどんな感じだろうな」
氷樹の後ろの席の男子が話しかけた。
「さあ」
氷樹はそれだけ言ったが、それでも後ろの男子は話をやめなかった。
「まだ新しい学校だけど、グラウンド広そうだし、サッカー部も人数多いかな」
そう氷樹に話しかけているのは
「……」
相手が付き合いの長い祐輔にすら、こういう風に素っ気ない態度だった。けれども決して彼を見下しているとか、馬鹿にしているというつもりはなかった。氷樹にはこういう表現でしか自分の気持ちを表すことができないのだ。
すると今度は周りの女子が話しかけてくる。いくら氷樹が(本人がそう意識していなくとも)素っ気ない態度をとっても、彼女たちにとっては「氷樹くんと話ができた」と嬉しくてたまらないし、少しでも氷樹に興味を持ってくれるように、好かれるように彼女たちは一生懸命に自分のことをアピールしてくるのだ。
(今、こいつらに俺の考えていることを言ったら、どう思うのだろうか)
考えていること――それは以前も心の中で考えていたことだった。自分が死ねば、みんなはどう思うのだろうか――
◇ ◇ ◇
両親は卒業式を終えた氷樹に色々話しかけるが、氷樹は最低限の受け答えしかしなかったし、家に帰るとさっさと自分の部屋に行ってしまった。
「……」
母親は心配そうな顔をしていた。自分の息子がどんなことを考えているのかわからない。学校での出来事を一言も話さないし、それどころか話をする時間でさえ全くと言っていいほど無いのだ。いつも何を聞いても、「ああ」とか、「別に」とかしか答えない。
氷樹は自分の部屋に戻るとベッドの上に横になりながら窓から見える空を見上げていた。
◇ ◇ ◇
「卒業おめでとう、お兄ちゃん」
夜、妹の
「ああ」
例によって氷樹は短く答えたが、麻世は心から嬉しそうな笑顔だった。
というのも、春からは氷樹の高校に近い国立の中学に通うことになっているからである。
麻世は私立の名門・
そして氷樹と同様に非常に容姿端麗な女の子だった。本当に絵に描いたような美少女で、髪は長くて肌は白く、長い睫の瞳は魅力的で、年齢に似合わず女の艶っぽさが漂う十二歳の少女だった。だからもし共学の学校だったら男子からかなり人気が出ていただろう。
彼女は今通っている付属の中学には進学せず、氷樹の進学先に近い場所にある国立の中学校を受験して見事合格した。
「早くお兄ちゃんと一緒に学校に行きたい」
彼女にとってはそれが夢だった。昔から氷樹と一緒に学校へ通うことを望んでいた。けれども私立の小学校に通っていた彼女は、氷樹とは離れ離れになってしまった。
だからどんなにこの時を待ちわびたことか。氷樹が受験する高校に合わせて自分も受験する学校を選んでいた。そのくらい兄のことが大好きだった。
「……」
嬉しそうに話しかける妹を、氷樹は改めて半ば不思議そうに見ていた――どうしてこの妹はこうも自分に懐いているのだろう。
氷樹にとって麻世は妹ではあるがさほど関心もなく、ほとんど構うこともなかった。それなのに、昔から自分に懐いてくる。
また、普通であれば年頃の兄が妹と学校に一緒に通うなど恥ずかしくてやりたくもないことだったが、氷樹はその点においては気にしていなかった。単純に彼女に対して無関心だったし、周りにどう思われるかなどどうでもよかったのだ。
(
妹の麻世に対してはさすがに煩わしいとまで思うことはなかったが、やっぱり不思議だった。ほとんど毎日氷樹の部屋に来ては学校の話をしたり、大抵は夜寝るまで部屋にいることが多く、たまに一緒に寝てほしいと甘えることもあった。
(もし俺がいなくなったら、こいつは悲しむのだろうか)
氷樹は再び心の中でそう呟いた。けれども妹は心から自分と学校に行くことを楽しみにしている。
すると氷樹はふとあの雨の日に出会った小学生の女の子のことを思い出した。
「……」
あの時に感じた感覚に近いものが今氷樹の中に流れていた。自分が生きている意味をほんの少し実感できたあの時の感覚――すると氷樹は心の中で呟いた。
(もう少しだけ、生きてみようか)
◇ ◇ ◇
数日後、氷樹はビリヤードを打ちに出かけようと準備していた。
「あ! これから打ちに行くの?」
麻世がキューケースを持っている氷樹を見て言った。
「ああ」
「私も行きたい! ねえ、いいでしょ?」
「……」
元々父親の影響で始めたビリヤードだったが、氷樹は独りで淡々と打つのが好きだった。それに、ビリヤードをやっている友達もほとんどいないし、基本的に独りで打っていた。
けれども麻世も氷樹に
「別に構わないが」
それだけ言うと麻世は「やった! すぐ用意するから待ってて!」と言って自分の部屋にダッシュで戻っていく。やがて支度を終えて氷樹と一緒に玄関へ向かった。
「あら? 今日は二人でお出かけ?」
母親が声をかける。
「うん! お兄ちゃんとビリヤード!」
「そう、行ってらっしゃい」
二人は家を出て駅に向かった。ビリヤードの店は駅前の商店街の一角にある。
「すごく久しぶりじゃない? お兄ちゃんと一緒に打ちに行くの」
「そうだな。お互い受験だったしな」
「手、つないでいい?」
「別に」
麻世は嬉しそうに氷樹の手を握る。
(俺に、そんな価値ないのにな)
せっかく優秀に育ったのに、こんなつまらない兄に懐く理由が全くわからない。何がここまで彼女をそうさせているのだろう。
両親が彼女から聞いた話では、学校では友達も多くて上手くやっているようだった。
(……)
氷樹はいつしかの〝騒動〟を思い出しかけた。彼女が付属の中学に進学せずに受験をしたいと両親と口論を始めた記憶――
(いや、今はもういいんだ)
麻世の幸せそうな表情を見て、思い出すのをやめた。
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