優しい水

 友人はいつも僕にこう言った。水には2種類ある。優しい水とそうではない水だ。

 僕にはその意味がよく分からなかった。それは体に良い水とそうではない水があると言うことか?しかし彼はそうじゃないと言った。もっと本質的な違いだ、と。僕はますます混乱した。彼は何を言っているのだろう?

 僕は彼の話を聞いた後、コンビニに行き、水をペットボトルで2本買った。エビアンとクリスタルガイザー。硬水と軟水である。飲み比べてみた。軟水であるクリスタルガイザーの方が口当たりが柔らかく、優しい感じがした。軟水が彼の言っていた「優しい水」なのだろうか。いや、おそらく違うだろう。

 僕は頭を捻って色々と考えてみたが、「優しい水」が何であるのか、全く分からなかった。どういう意味だろう?僕は家族や友人に訊いてみたりもした。でも答えは出なかった。

 その不思議な友人にもう一度会った時、彼はタンブラーを持参していた。

「これが優しい水だよ」

 まさか彼が実際にその「優しい水」を持ってくるとは思っていなかったので、僕はいささか驚いた。

 彼はそのスヌーピーの一コマが描かれている銀色のタンブラーの蓋を開け、僕に中を覗き込ませた。でもそこには何もなかった。ただタンブラーの底が見えるだけだった。

「何も入っていないようだけど」僕は言った。

 僕は「優しい水」とは結局形而上の存在なのかと落胆した。しかし、彼はこう言った。

「手のひらを出してご覧」

 僕は訝しみながらも両の手のひらを合わせ、彼に差し出した。彼はタンブラーを傾け、僕の手のひらに注ぐような格好になった。

 僕はとても不思議な体験をした。

 タンブラーからは確かに水が注がれていた。僕の手のひらも水が注がれている感覚をしっかりと捉えていた。しかし、水は全く見えなかった。僕は目を凝らして見た。でも何も見えなかった。手品かと思った。

「手品なんかじゃないよ。これは本当の水なのさ。誰の心の中にも存在する、でも時間とともに損なわれてしまう水。この水は誰にも見えない。けれど心の目で見ればその存在をしっかりと感じることができる。君は手のひらからこぼれ落ちる水の滴りを感じたろう?それは君の心にまだ優しさがあるという証拠だよ」

 何だか難しい話である。見えない水?そんなものがこの世に存在するとは思えなかった。でも僕は確かに感じた。その水の存在を。

「いつか君もこの水の存在を感じることができなくなる。『優しい水』があったことさえ忘れてしまう。それはとても悲しいことだ。でも仕方がないことでもあるんだよ。昔はお化けや妖怪が一般の人にもよく見えたと言う。僕らはどうだ?おそらくこの水も昔は普通に皆見ることができたのだと思う。今では存在を感じることのできる人がいる程度だ。たぶんこの先この水の存在はどんどん忘れられていくだろう。僕はあえてその流れに逆らわない。それはとても大きな流れで、どんなに抗おうと結局流されてしまうからだ」

 何だか分かるような分からないような話だった。科学と民俗の話だろうか。あるいは僕たちの心の話か。いや、この場合は精神と言った方が正確なのかもしれない。

「君は朴訥な人間だね。僕にはそのことがとても好ましい。本当に物事が分かっている人は声を荒らげたりしない。大声を出さない。これは半分持論だけれどね。

 世界は広い。僕の考えが全てではないし、君の考えが全てではない。様々な考え方がある。今この瞬間も、誰かが何かを考え、何かを嘆き、何かを憂いている。でも同時に嬉しさや楽しさもどこかで生まれている。僕は僕の範囲でしか世界を認識できない。だから正解なんてものがこの世にあるのかどうか、僕には分からない。ただ、君にはこういった世界があるのだと、知って欲しかったんだ」

 頭が混乱してきた。僕はただ頷くことしかできなかった。見えない水、世界の認識、物事が分かっている人。僕には何が何だか分からなかった。これは本当に現実に起きていることなのだろうか?

「いつか君が今日の出来事を思い出すことがあるとしたら、僕はとても嬉しい。君には強制しないけれど、でも、できれば今日の出来事を忘れないでいてほしい」

 忘れない、と僕は言った。今日の出来事の意味が本当に分かるまで。僕はきっと忘れない。

「君にはただ知って欲しかった。このことをどうか君が覚えていてくれることを願うよ」


 彼とは大学を卒業するまで数えきれないくらいの頻度で遊んだ。でもその「優しい水」に関する話題はもう二度とされることはなかった。僕は何度もあの日の出来事の意味について、彼に問いたかったけれど、なぜか訊くべきではないと思った。おそらく心の奥底の何かが、僕にそうさせたのだろう。

 人は不思議な生き物だ、と思う。僕が人を理解するまでには、どのくらいの歳月が必要なのだろう。あの日の出来事が真に理解できるまで、僕はなるたけ人と正面から向き合おうと思った。

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