ワレモノ

 僕の弟は世の中を憎んでいた。彼は先天的に左腕がなかった。彼はそのことで時折手がつけられないくらいに怒り出すことがあり、そうなると僕ら家族はみんなで彼を慰めた。でも彼の怒りは強く、深く、凄まじかった。

「俺を憐れみの目で見る奴らが一番許せねえ」これは彼の口癖だった。

 だから弟が交通事故で死んだ時、僕は彼は苦しみから逃れることができたのだと思った。長い長い苦しみの現世から解放されたのだと、勝手にそう思った。僕は結局彼に何をしてやれただろうか。何をして、何をすべきでなかったのか。僕はその答えを最後まで出せなかった。

 大学生になり、右腕がない彼女ができ、僕は弟のことを話した。僕はどうすれば良かったのだろう、と。謝れば良かったのか、叱れば良かったのか。

 彼女は少し沈黙し、そして言った。

「人生って結局は考え方次第だと思うの。この世が憎いのは、この世が憎まれるべくして憎まれているわけじゃなくて、自分が憎いと認識しているから憎いと感じるのよ」

 僕には難しくてよく理解できなかった。要は考え方次第でどうにでもなると言うことか。

「そう。私は最近こう考えるようにしているの。私は右腕がないでしょう?でもそれは元々私という存在そのものが、そうあるべくしてそうなったんだ、って。人は誰1人としてー中には1人くらいいるかもしれないけどー翼がないって嘆く人はいないでしょう?なんで俺には翼がないんだ、って、そう嘆く人はいない。それは人がそもそも翼のない存在だと認識しているからよ。だから私も私は元々右腕がない存在として生まれてきたんだ、そうあるべくしてそうなったんだ、こう思うようにしてるの」

 人それぞれとはよく言うが、やはりその通りなのだと思った。人の数だけ考え方がある。それはとても素敵なことだと思った。自分が考えていることは世界のほんの一部のことに過ぎないのだ。世界は広い。見えている部分でさえも広いのに、見えていない部分はもっと広い。僕はその世界の広さを想像し、圧倒された。

「結局僕はどうするべきだったんだろう?」

「私はその弟さん自身が解決するしかなかったんだと思う。突き放すような言い方だけど、その人の悩みは結局その人でしか解決できないのよ。悩みは受け入れるか、逃げ切るか。つまり考え方を変えるしかない。そして受け入れるにも逃げるにも、時間を要する。全ての悩みは時間が解決するとしか言えない。すり傷が時間をかけて治っていくように、心の傷も少しずつ時間をかけて治すしかない」

「僕ができることは何もなかったのかな?」

「話を聞くしかなかったのかもしれないと思う」

「話、か」

 僕らは今彼女の家にいた。2人で映画を見に行き、そのまま彼女の家にお邪魔したのだ。彼女は大学を機に上京して1人暮らしをしていた。僕は実家暮らしをしている。今僕らは、彼女のマンションのリビングで、丸テーブルを挟んで互いに向かい合って話をしていた。

「僕は最近思うんだ」

 一応彼女の返事を待ったのだが、返事はなかった。

「人はワレモノ注意だ、と。慎重に扱わないと、割れる。その破片は近づいた人に刺さることがある。刺さると当然痛い。時には血も出る。ひょんなことで人は割れてしまう。脆いんだ。だからワレモノ注意だ。そう思うんだ」

 彼女みたいに理路整然と話せなかった。考えがまとまっていないのだ。

「ヤマアラシのジレンマ、ね」彼女は言った。

 もうすでにそういう言葉があるのか、と思った。


 人は傷つきやすい生き物だ。でも誰もが傷つかない世界を想像してみても、あまり楽しくなさそうだな、と思う。当たり障りのない世界。皆が幸せそうに笑っている。でもそれは本当じゃない。僕は苦しみや悲しみがあるからこそ、楽しさや嬉しさがあるのだと思う。

 彼女の話をきいて、たまには時間に身を任せ、傷が塞がるのを待つ、そんな生き方もいいじゃないかと思った。でもそれは案外難しいことかもしれない。


 夏が来て、弟の命日に墓参りに行った。僕は弟が眠っているであろう墓に喋りかけた。そっちの世界はどうだ、と。でも返事はなかった。当然だ。死者の気持ちは想像するしかない。死者は何も話してくれない。僕らは互いにワレモノだった。僕らは段ボールに入れられていて、どこかに運ばれるはずだった。でも弟は途中で段ボールから落ちてしまった。彼は粉々に砕けた。彼は最後に何を思ったのだろう。やはり世界を憎んでいたのか、それとも最後は許したのか。

 僕はたまに弟は世界を憎んでいなかったんじゃないかと思うことがある。憎いのは自分自身だったのではないか、と。腕がないことの責任を誰かに押し付けたくて、自分が不完全な人間だと思いたくなくて、世界が憎いと言っていたのではないか、と。

 でもそれは考え過ぎているのかもしれない。世界はもっと単純で、人はもっとシンプルな生き物なのかもしれない。分からない。僕には難しすぎる。

 また来るよ、と、弟に言った。いつか、もしまた会えることがあったら、弟が飽きるまで話を聞こうと思った。

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