風来坊
僕の父は読書家だった。分厚い洋書をよく読んでいて、僕はいつも父に面白いのかと尋ねていた。父は優しい声で、俺には半分も理解できないが面白いと言っていた。僕はよく分からないのに面白いと言う父のことを理解できなかった。物事ははっきりと理解できるようになってこそ、面白いと感じるのだと思っていたからだ。
高校生になり、梶井基次郎の「檸檬」で読書感想文を書いたら、何故か校内の賞に入選した。僕は全校生徒の前で表彰された。何だかむず痒いような、恥ずかしいような、でもとても誇らしい、そんな複雑な気持ちになった。
僕の父はその頃持病が悪化してずっと入院していた。僕は部活がない日にお見舞いに行ったりした。父は青春は今しかないのだからあまり見舞いには来なくていいよと言ったが、僕が見舞いに来ると、嬉しそうな顔をした。
父はどんどん痩せていった。食事が喉を通らないようだった。でも僕が見舞いにいった日はご飯をばくばく食べた。きっと父の見栄だろう。
ある日父に表彰されたことを伝えた。父はとても喜んでくれた。僕の頭を撫でながら、立派に育ったなあと言った。僕は頭を撫でられることが恥ずかしかったけれど、でも、やっぱり嬉しかった。父にその感想文と表彰状を見せた。父はまず表彰状を見て凄いなあ、とか、いいなあとか言った。その後で黙々と感想文を読み、面白いと言った。僕はとても誇らしい気持ちになった。
「父さんは梶井基次郎読んだことある?」
「実はないんだ」
僕たちは声を合わせて笑った。父と笑い合ったのは久し振りな気がした。
母は僕が物心つく前に出ていった。男ができ、一緒に逃げていったらしい。父は相当落ち込んだという。でもこれからは俺1人でこの子を育てるんだ、と、周囲に強気な姿勢は崩さなかった。父は強くて、優しかった。僕は父を心から尊敬することができた。僕は父が大好きだった。こんな強くて優しい人になれたら、と思った。
父はよく僕にこう尋ねた。兄弟欲しかったか、と。でも僕は父と2人で暮らしていることに特に不満はなかった。毎日が穏やかに過ぎていくことが、父の話が聞けることが、とても楽しかった。僕はいつもこう答えた。僕にとって父さんは、父さんである以上に心強い兄貴でもあるんだ、と。
父は病室でも洋書を読んでいた。僕は何を読んでいるの、と聞いた。トマス・ピンチョンだと答えてくれた。でも僕はその作家を知らなかった。今でもよくは知らない。訊くと父さんもそこまで知っているわけではないようだった。やはり父は今でもよく分からないことが好きなのだな、と思った。作品も難しくてよく分からないと言っていた。僕は思わず微笑んだ。
それから何週間か過ぎ、父は手術を受けることになった。僕はとても心配した。大丈夫なの、と。すると父はこう答えた。
「人は皆風来坊なんだ。たまたまこの地球にやってきて、こうして縁を結んでいる。でもやがて俺たちはどこか遠くへと去っていく。偶然この瞬間ここにいるだけなんだ。どこからかやってきて、やがて去っていく。俺たちはそういう運命なんだ。あらかじめ定められているんだ。俺たちの魂は一つ所に留まるようにはできていない。風に乗り、やってきて、風に乗り、去っていく。だから、何があっても悲しむんじゃない。それは自然な成り行きなのだから」
僕は正直にどう言う意味なの、と父に尋ねた。父は、いつか分かるよ、と、ただそれだけしか答えてくれなかった。
手術は成功したけど、その1ヶ月後に父は亡くなった。僕は悲しかった。生まれてきたのを後悔するくらいに悲しかった。レモンを買ってその匂いを嗅いでみても、悲しい気持ちに変わりはなかった。
涙で途方に暮れていると、ふと父の言葉を思い出した。人は皆風来坊なんだ。今ならその意味が分かるような気がした。父はこの言葉を言った時、すでに自分が長くないことを知っていたのかもしれない。
アパートのベランダに出て外の景色を眺めた。風が強く、強く吹いていた。
父の魂もこの風に含まれているかもしれないな、と思った。
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