唐紅を背負う一族 六

 趙雲により激しい陰の気が波打った其の時、遥か上空。


「祝融様!」


 槐はもう、黙ってはいられなかった。無力のまま事が終わるまで見ている事しか出来ないのか。そう、遠方へと向けてただ祈るだけしか出来なかった時とは違う。


 今、目の前で、彩華は死の淵にいるのだ。


「祝融様!彩華が……今度は彩華が死んでしまいます!起きてください!!」


 正しく淑女らしく、正しく風家息女らしく、正しく皇妃らしく。そんな言葉は、今は邪魔だ。恥も外聞もかなぐり捨てて、槐は喚き祝融を乱暴に揺すった。


「祝融様!!!」


 しかし、どれだけ声を荒げても祝融はぴくりとも動かなかった。槐に無力感ばかりが募る。矢張り、待っているだけしか自分には出来ないのか。

 槐の頬に一筋の涙が伝い流れ落ちた。


「槐様……」


 背後で、黎が槐を静止しようと背を支えるも気に留める様子もない。泣いている場合ではない。慰められている場合ではない。槐は涙を拭うと両手を振り上げる。


「また、後悔するつもりですかっ!!」


 どん――と、細い腕が振り下ろされ、確りと握られた女の手が祝融の胸板を思い切り殴りつけた。


 ◆◇◆


 深い、深い谷底にも似た闇の底。下はずんと暗いのに、上からは光が見える。光が届かないそこは、静かで、かといって足がつくわけでもない。

 ただ、水の上を揺蕩う様に浮かんでは、真っ暗なそこから光を眺めた。

 その水も、どろりとした感触が、油の様で、泥の様で、血の様だった。

 冷たくもない。温かくもない。ただ、纏わりつくだけだ。


 祝融は、そんな何処とも知れぬ谷底で、ずっと漂っているだけだった。

 時折そうやって、何処とも知れない景色を眺めるが、暫くすると途端に眠りへと誘われる。大抵が、何かを思い出そうとしたときだ。

 思考を飲み込む様に、黒い虚無が祝融を丸ごと飲み込むのだ。


 まだだ。まだ時ではない。そう言っている様で。



 ――……しゅ……ま


 遠くでいつも、声が聞こえる。光の中、その声に手を伸ばそうとするが、矢張り、眠りへと飲み込まれる。

 声は、多種多様にあった。

 静かに語る声、弱々しく泣いている声、楽しげに話す声、怒りを向ける声。


 どれも、遠くで聞こえる。それこそ、光の中から聞こえていた。


 そして、また、声が響いた。


 ――祝……様……     


 泣いているのか、弱々しく震えるか細い声。

 かと思えば、その声は突如怒りに変わる。


 起きろ、と何度も言われる。


 起きている、と返そうとするも声は出ない。

 何故泣いている、何故怒っている、祝融は声に手を伸ばそうとした。

 あの声の所へ―― 


 ――また、後悔するつもりですかっ!!


 激しく世界が揺れた。

 すると、視界に変化が現れた。ぐるりと視界が反転して、下にあった筈の谷底の暗闇が今度は上になったのだ。

 その瞬間に、祝融は水に揺蕩う浮遊感とは違ったそれの感覚に気がついた。


 いや、これは――落ちている。


 今度は、眩い光の中へと落ちていった。 


 ◆◇◆


 何度も、何度も、何かが身体を叩いた。喚いて、泣きじゃくる声の主は、縋りついても尚、祝融を叩きつけ続けた。

  

「……槐」


 ぼそりと囀る声は、掠れて風の中に消えてしまいそうだった。けれど、喚く槐の耳には確りと届いて、槐は、ぴたりと手を止まった。

 ゆっくりと顔をあげれば、そっと微笑む夫の姿があった。


「祝融様……」


 槐は縋りつきたい衝動に駆られるも、地上の龍の咆哮が再び空まで轟いた事で現実を知らされた。


「今の……声は……」


 掠れ声のまま、祝融は聞き覚えのある龍の声でゆっくりとだが身を起こす。


「彩華です!彩華が……!!」


 一度治った槐の目に、再び涙が浮かぶ。目覚めたばかりの祝融の思考にも、容易に想像がついた。

 祝融は、まるで何事もなかったかのように、その身を起こす。


「直ぐに、彩華の元へ……」


 ◆


 黒龍は暴れ続けていた。邸の周りを囲む兵士達も、咆哮が続く事で騒ぎ始めている。


 早く戻れ。

 飛唱は願うよりなかった。声は届かぬ、痛みも効かぬでは手立てがなかった。


 ――お前が女房置いて死んじまうからだ


 飛唱は、既に故人となった男を恨んだ。待つしかない。けれど、いつ姜道托が痺れを切らすとも言えない状況で、飛唱は選択を迫られていた。

 それは、同じく彩華を抑えていた浪壽にも浮かんだ考えだったらしく、物言わぬ目でじいっと飛唱を見ていた。


 ――決断するべきか


 彩華ならば、戻って来れると信じていた。しかし、彼女の強さは関係なく夫の死を今も悲しみ苦しんでいるのだとしたら――そう結論づけた時、飛唱は決意の現れから剣を抜いていた。


「浪壽、頭を抑えてくれ」


 苦々しい表情を浮かべ、飛唱は一度彩華から降りた。

 龍の真正面へと回り込み、荒くれる龍と対面する。飛唱が首から剣を抜いた事で、黒龍は自由になった頭で飛唱に喰らい付こうと牙を剥き出し暴れたが、今度は浪壽に抑え込まれ、その眼光だけがしっかりと飛唱を憎き相手とでも言うかの如く睨め付けていた。


「……彩華、すまん」


 雲景の魂と巡り合う事を祈っている。飛唱は一生拭えぬ後悔を胸に抱くと、剣を逆手に構えた。が――


「飛唱、待て」


 止めたのは浪壽だった。飛唱が浪壽を見やれば、彩華をしっかりと押さえながらも上空を見ている。確かに頭上には金龍がいるが、と飛唱も浪壽に習って上を見上げた。

 すると、金龍がゆっくりとだが降りてくるではないか。


「黎!危険だ、此方へは来るな!」


 槐に何かを言われたのだろうか。と、戸惑い叫ぶも、構わずに降り立った金龍を前にして飛唱は驚いた。


「祝融様……」


 まだ、足元が覚束無い様子ではあったが、蟲雪に支えられながら祝融はゆっくりと金龍の背を降りていた。


 ――歩ける訳がない……ふた月眠ったままで、腕一本すらまともに動かせる筈が無いのに……


 飛唱は呆然としていた。それこそ、うっかりと剣を落としそうになる程、だ。それ程に驚嘆として言葉を失っていた。


「……飛唱……少し、待ってはくれないか」


 寝衣姿に祝融が眼前までやってきて、漸く飛唱は、はっとして揖礼する。


「良く、戻られました……しかし、彩華はもう……」


 飛唱が諦めに吐いた言葉で、祝融もまじまじと彩華の様を見た。

 黒龍の眼光の先が、飛唱から祝融に移り、今にも食い殺さんとする。

 強者を見つけ、益々黒龍の力が増している様で、暴れる黒龍を上から押さえ込む浪壽すら体が浮き上がりそうだった。


「殿下! 時間がありません!」


 焦る浪壽とは反対に祝融は静かに彩華を見つめる。


「……彩華、」


 祝融が名を呼んだ、其の時。ピタリと黒龍の動きが止まった。


「お前は雲景と共に良く仕えてくれた」


 祝融は支えていた蟲雪を下がらせると、言葉と共に足を引き摺りながらも一歩づつと近づいていく。


「お前がかしずいた、を俺は今でも良く覚えている」


 黒龍のまなこに祝融の姿が映り、段々と瞳孔から鋭さが抜けていく。

 そして――


「……私も、忘れた事は……ございません」


 深く息吐きながら、黒龍は言葉を喉から絞り出した。

 其の声は浪壽にも届き、浪壽は彩華から離れた。


 黒龍の身体は縮んでいき、祝融の眼前、彩華は跪く姿で人の姿へと戻っていた。

 彩華はふらつきながらも立ち上がると同時に揖礼する。


「お待ちしておりました」


 痛みを堪えながら彩華は微笑んで見せる。其の様を見て、祝融は飛唱に彩華を支える様に言う。

 そして崩れかけた宮を眺め、転がる業魔になりかけ黒く染まった者の姿を見た。首を刎ねられ、胴から離れたところに放り出されたままの頭は、虚しく転がったままだ。


 其の視線に気づいた浪壽が、「趙雲殿下です」とだけ答える。祝融は、小さく「そうか」とだけ返して、その眼差しは、寂寞せきばくと趙雲を眺めるだけだった。


 ふと、祝融は辺りを囲む気配に気づく。漸く感覚が戻り始めたのか、其の中には見知った気配もあった。其の気配に向かって、祝融は歩みを進めた。


「祝融様、」

「話をするだけだ」


 止めようとした浪壽の静止を振り切り、祝融は門へと向かって進んだ。


 そして――


「なんだ、目が覚めたのか」


 門の前で佇む男は祝融を視界に捉えると複雑にも、顔を歪めるがただ嫌味を吐くだけだった。


「どうやら、楊彩華は処分せずに済みそうだ」


 祝融と目を合わせながらもその表情に嫌悪はなく、それこそ祝融の脳裏に遥か彼方へと消え去った筈の兄弟としての思い出が浮かびそうな程、祝融には物寂しげに見えた。

 

異母兄上あにうえ


 其の言葉で道托の肩がピクリと動くが祝融から目を逸らし、その場で憂慮に地を見つめるばかり。


「趙雲に関しては、俺が殺したと陛下と伯父上に報告するから、無駄な心配は不要だ。お前は、今暫くは眠っている事にでも……それこそ、風家にでも身を寄せておけ」


 何か、思う所がある様ではあったが、道托は自らに思いを吐露する事はなく、淡々と建前を口にし始めた。

 其の目は、さっさと何処かへ行け、と言っている様で祝融は静かに「では、我々はこれで」とだけ告げた。

 思わぬ道托の姿に後ろ髪引かれながらも、祝融はその場を後にしたのだった。

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