唐紅を背負う一族 三

 彩華の背後、其の壁の向こう。確かに居たはずの、女官の気配が消えた。 

 それも、一瞬で。彩華はどこともなく睨みを利かせ静かに立ち上がる。


「彩華?」


 来た。そう確信するが早いか彩華は動いた。事が起こったのだと告げるべく、槐に左手を差し出し立ち上がる様に促す。


「槐様。どうか、ご自身と祝融様の事だけをお考え下さい」


 それは、「他は見捨てろ」も同然の言葉であった。彩華の瞳は、真っ直ぐに槐を見た。もう、槐を説得させようとはしていない。其の冷たくも力強い眼差しは、槐に覚悟を求めていた。


「判りました」


 槐は頷いた。犠牲になる者に対して胸を痛めなかったわけではない。彩華の意思を鈍らせてはならなかったのだ。彩華の手を強く握り返し彩華に覚悟を返すと静かに離す。

 彩華は命綱でもある剣に触れる。腰に帯びていたそれを構えると、二人は食堂を抜け出した。

 

 先ずは、彩華の部屋へと向かわねばならなかった。そこに矛がある。剣は苦手ではないが、矛の方がより卓越していた。

 廊下は、何の気配もなかった。敵だけでは無い。この宮で働く者全ての気配が、一切感じられなかったのだ。

 音も消え、まるで宮の中に取り残されたのが自分達だけの様で、彩華は思わず身震いした。


 ――熟練者……と言うだけではなさそうだ


 彩華は、全ての可能性を考慮せねばならなかった。何が起こってもおかしくはない。だからこそ、燼が警告の為に姿を現したのだと。

 警告に来た男が助けてくれる可能性など捨て、彩華は守るべき存在に意識を向けた。


「槐様、参りましょう」


 槐も宮の異様な雰囲気を感じたのか、不安を押し込める為に胸の前で手を握って震えを堪えている。どれだけ気丈に振る舞えたとしても、恐怖は消えないだろう。

 今何が起こっているかを考えれば、苦悩に意思が揺らぐ事もある。彩華は今一度、槐の固く閉じた手に触れる。 


「必ず、お守りします」


 その言葉で完全に心が和らぐ事はない。自己暗示にも近いそれに、槐は再び頷いた。

 

 ◆


 何も、音がしない。

 蟲雪はどれだけ耳をすまそうとも、宮の中で動く数すら減っている事に気づいた。すでに、中にいる。大きな宮だ。見張りさえ消してしまえば、どこからでも入れるだろう。


「蟲雪、奥方と彩華氏は?」

「はっきりとは分からないが、動いているのがいる。もしかしてらそれかもしれな……」


 蟲雪の言葉を遮るように部屋の空気が重くなった。部屋の明かりがゆらゆらと揺れた、瞬間。蝋燭の灯りが消えた。

 二人が動いたのは同時だった。

 闇が蠢き二人に向かって蛇が如く影が生えた。幾重にも鋭利な鋒を向け、二人を串刺しにしようとする。

 九芺も寝台へと駆け寄った。

 九芺は剣をふるい、蟲雪はその爪を向けた。影は刃が当たると共に簡単に崩れた。鋭いが脆い。それでも、どれだけ振り払おうとも次々に繰り出される。


「九芺氏!何かいるぞ!!」


 蟲雪は怒号の如く声を轟かせた。蟲雪が殺意を向けた先、九芺は動く。

 九芺は蟲雪の殺意の先、入り口へと向けて地を蹴った。蠢く暗闇の中に、微かに人の気配がある。


 ――いや、人だった……何か……


 九芺は人だったとしても、その勢いは止まらなかった。殺伐とした殺意をその個に向け剣を振り下ろした。

 それは、いとも簡単に崩れ落ちた。それこそ、影の刃と同じ感覚だった。


 ――これはっ!!!


 九芺は崩れ去るを見届ける事なく振り返った。


「蟲雪!!」


 蟲雪は慌てて振り返る。そこには、今にも祝融に向けて剣を突き立てようとする黒々とした人影の姿。蟲雪はそれの喉元に噛みつこうとした、が。何かが足に絡まった。

 蟲雪は影を振り払うも、出遅れた。

 

 ――間に合わない!


 その刃が今にも、祝融の胸に刺さろうとした瞬間だった。

 黒い影の脳天に向かって、ぐしゃりと頭蓋が砕ける音と共に投擲の如く矛が突き刺さった。


「あ……あぁっ」


 影は呻くが、矛が突き刺さったまま寝台から転がり落ちた。彩華は颯爽とその影に近寄ると矛を容赦なく引き抜き、その頭に再度頭部を潰す様に突き刺した。

 暗がりの中でも彩華の瞳は常軌を逸脱しているかと見間違えそうになる程に憎悪を宿していた。人を殺すことに手慣れた彩華の姿は殺伐とした空気を纏い、誰もが言葉を失った。


「槐様、血がつくやもしれませんが、祝融様と共に寝台の上に。できれば、出来るだけ側に寄っていて下さい」

「……ええ」


 無情な彩華の様子に、槐は言う通りに寝台によじ登り祝融の上体を起き上がらせ抱き締めた。目覚めぬその身。槐は震えを誤魔化す為に祝融の顔に頬を寄せる。

 槐の細腕では祝融の肉体はずしりと重たい。しかし弱音は吐いていられず、今は少しでも危険を減らしておかねばならなかった。何より、決して手放せないものだった。


「蟲雪、と同じ気配を読めますか?」


 そう言って彩華が目を向けた先、殺した筈の影が忽然と消えていた。頭を潰して動けなくなっていた、影。もう一体に飲まれたか、動いたのか。どちらにしても、蟲雪が結論を出すまでも無かった。

 それが気配を生み出す時、それは殺意がある時だけだ。それすら小さな気配だ。


「槐様、」


 彩華は腰に帯びた剣を抜くと槐に渡した。左腕には祝融、右手には剣。負荷がさらに大きくなった。


「ご自身の身を守る為に、お使いください」


 暗闇の中、槐は自身の手にずしりとした重みを久方ぶりに感じていた。もう永く手放しているそれを、槐は迷いなく握る。

 最悪の場合も考えねばならない。

 そんな槐を案じるべく蟲雪が寝台の上に乗り上げて、祝融と槐の盾となった。


 ずるり――と何かが這いずる音が部屋に響く。その気配はボコボコと影がより集まって大きくなる。天井まで高くなると入り口を塞ぎ狭苦しそうにしながらも、ニタリと笑った。

 いや、笑った気がした、が正しいだろう。その顔は暗闇にのまれ何も見えやしない。

  

 彩華は九芺をその場に止まらせると前に出た。狭苦しそうにしているその影めがけて矛を突き刺さんとするべく向ける。しかし、狭い部屋の中でも影は恐ろしく早く動いた。

 向き合った彩華に腕を真横に傍若に振る。その勢いに風圧が彩華にのしかかる。が、彩華は矛を握る右手とは別に左腕で矛を支えて、からくも受け止める。

 

 重い。矛の柄が折れるのではとすら思える程に、ミシミシと彩華の肩すら軋ませる。すると、今度はもう一方の手が彩華を狙った。

 彩華はもう一方の腕を軽くいなし、左腕が打つかるよりも速く上に飛んで、右手首目掛けて矛を突き立てる。


「九芺!蟲雪!祝融様と槐様を連れて上空へ!!」


 彩華の言葉は龍の咆哮が如く轟くと、九芺の動きは早かった。

「失礼」と祝融を肩に担ぎ上げ、蟲雪に槐を抱き上げる様に言う。

 すると影が変化した。肩がむくりと隆起し、新たな細っそりとした手が幾つも生え、束になって祝融目掛けて伸びていく。彩華は抑えていた右手首から矛を抜くと、全てを九芺の盾になる形で全てを打ち捨てた。

 大きな黒い影は苛立ちと焦りが、更に募っていた。


 ――あああぁぁぁ!!!


 憎い。憎い。憎い。

 其の叫びは、音となって影から現れる。


 大きな影の形がどろりと崩れ、液状となった。黒い水溜まりが広がって、ぼこっ――と真ん中あたりが一回だけ泡だった。

 次の瞬間には液状は大口を広げて大波となって祝融達目掛けて押し寄せた。立ちはだかっていた彩華すら飲み込み、一瞬でドロドロした影が差し迫ろうとしている。

 彩華の姿が捉えられなくなっても、九芺は見捨てるしか無かった。

 九芺は一瞬にしてその身を龍へと変じ、蟲雪はその背に乗り上げ祝融と槐に覆い被さった。目視の確認もあったものでもなく、一寸たりとも躊躇できない状況に九芺は一言の忠告も無く窓へと頭から突っ込んだ。

 龍が通り抜ける大きさではなく、壁すらも突き破り木片が飛んでいく。九芺はそのまま飛び立とうとしたが、尾に何か絡まっていた。


「くそっ!!」


 引っ張られる感覚で前に進めない。九芺は尾を暴ればたつかせるも、頑なに纏わりついている。

 もうダメだ。そんな言葉が九芺の脳裏に浮かんでいた。

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