目醒めし異形 一
雪が降り始めた。
冷え切った空気が舞い降り、皇都は深々と白く染まる。
寒さが本格的となっても尚、冬の間だけ大通りを埋め尽くす賑わいを見せる市の盛況はまだまだ続く。
陰の気が鎮まり、無事に山間部を抜け皇都へと辿り着く行商達。大通りで店を広げ、集めてきた珍品をこれでもかと高く掲げて、他の店よりも目立たせようと必死だ。
そんな市には、大勢の民が集まった。珍品を買い漁る者もあれば、遠方の話が聞きたい為に行商に顔を出す者、贈り物を熱心に選ぶ者と様々だ。
薄寒い曇天の空模様の下、「白仙山から冬が舞い降りた」、「まだ暫く雪が続きそうだ」、と言った他愛もない会話もそこかしこで見られた。一見、平穏そうに見えるその光景。しかし、中には口々に夜に不安を覚える声も聞こえた。
「また、人が死んだらしい」
死など、人にとって……殊更、
「先日、また妖魔が出たとか」
「皇軍は何をやってるんだ」
「それよりも神殿だ、何故動かん」
「神子様達が祈りを捧げて下さっている、今しばらくの辛抱だ」
「我々の信仰が試されているのだ、祈るしかない」
誰しもが、不安を抱えそれぞれの想いを述べる。不安が増す中、神殿へ祈る者が連日増えた。
死がすぐそこに迫って、手招きでもしている感覚が拭えず神々へと祈りを捧げる。
黄泉の国を統べる
それが日常となりつつある中、誰かが言った。
『春になったら、一体どうなってしまうというのだ』
そう、今は陰の気が鎮まる冬。
白仙山の影響が国全土に届いて、白神の加護が冬と共に満たされる季節である。
しかし、刻々と時は進む。雪解けの季節はまだ遠い。が、もし……
不安が不穏を呼び、混沌とした陰の気が雪と共に増していく――
◆
皇宮 最奥 神子燼の邸
その日、絮皐は呻き声で目が覚めた。くぐもった声が、綿布団に押し付けて声を必死に隠そうとしている証拠だ。
絮皐を起こさない様にと必死なのだろうか、布団に鋭く伸びた爪をたて、既に穴が空いていた。
「燼、」
絮皐は上体を起こして、燼に寄り添った。「大丈夫」と当たり障りのない言葉で落ち着かせるのが、絮皐の役割でもある。しかし、今日はどれだけ声を掛けようとも、燼に一歳の変化が見られなかった。
「燼?」
獣じみた呻き声と荒い息。絮皐は燼の顔を両手で覆って無理矢理に上に向けた。青白く染まったその顔は、
その色が治る日は、もうないだろうと諦めてさえいたが、それ以上に今日の顔色は深刻だった。
「燼!!」
瞳は紅く輝くが、その瞳は虚だ。目の前にいる絮皐すら視界に入らず、何処を見ているとも知れないそれに、絮皐は不安しか抱けなかった。いや、不安でない日など、燼の姿に変化が始まった頃から絮皐にはなかったのかもしれない。
絮皐は堪らず燼の身体をこれでもかと、強く抱きしめた。
「燼!絮皐!」
護衛兼、家令を務める
「黎、燼が……!」
今にも泣きそうな震え声で、絮皐は叫ぶ。
「落ち着いて。浪壽、女官達から火種を貰ってきて。私は香炉を用意します」
「ああ、それで治ると思うか?」
浪壽は不安を煽る言葉を、あっさりと投げかける。それには黎も、黙ってはおれず直情のままに浪壽を叱責した。
「良いから、直ぐに動きなさい!!」
わかった、と浪壽は落ち着き払って部屋を出て行った。
黎はテキパキと寝台のすぐ横の棚の上に香炉と香を用意する。浪壽が颯爽と帰ってきて、用意された香に火種をともすと燻されたそれから、黙々と白煙と共に独特の強い香りが部屋に広がった。
これで、少しは落ち着くだろうか。黎は見守るしかないと感じていた最中、浪壽は鋭い顔つきで腰に帯びた剣の鞘に手を添え、今にも剣を抜かんと柄に手をかけていた。その意識の先は、浪壽が護衛の対象としている燼だ。
「浪壽、何をしているのですか!!」
「黎、お前には本当に今の状態が神子燼に見えるのか?」
浪壽の言葉に反応したのは絮皐だ。燼の身体を左腕で頭から包み込む様に腕の中に抱く事で浪壽に対して身構えた。一方で、利き手である右手を枕の下に差し込んで、もしもの時にと用意していた短刀を掴む。
「絮皐様、腕に覚えがある程度では意味はありませんよ」
絮皐の動きは簡単に露見した。元は皇軍将の従卒だ。それなりに経験は積んでいるのだろう。
「……そうですね、多分私では勝てません」
絮皐はそのまま掴んだ短刀を浪壽に見せつける。
「浪壽、止めなさい!」
「安心しろ、どうせ俺には殺せん。もしもの時は、お前と絮皐様を逃すのに足留めが必要だろう」
浪壽のその身体に緊張が
「絮皐様、離れて下さい」
浪壽は剣を抜いた。
「駄目!」
絮皐はいつもの様に、自分が側にいればそれ以上悪くならないと浪壽に訴えかける。勿論根拠などない。ただ、燼を失いたくないが為、その手を決して離しはしないのだと主張しなければならなかった。
元に戻れると保証があるならば、浪壽だって無茶はしない。出来れば、いつも通り苦しみながらも笑顔を保とうと必死な姿に戻ってくれた方が余程良いのだ。
だが、その願いも虚しく――
◆
皇宮 玉座の間
その日も朝議が執り行われていた。文官、武官といった高職の官吏が並び、炎帝を前に膝を突く。
石の床が寒々と身体を蝕む中、ふと、一人の若い文官が小さな揺れを感じた。一瞬膝をついたまま目配せだけして辺りを見るも、周りは誰も気が付いていないようで、気のせいかとまた目線を下す。
しかし、また暫くすると小さな揺れに思わず顔を上げた。今度は気のせいでは無い。
若い官吏は迂闊にも顔を上げてしまったが顔を上げたのは若い官吏一人ではなく、まばらに頭が動いている。
どうにも玉座の間に集まった中でも複数人が、揺れに気がついていた。
「何をしている!陛下の御前で無礼だぞ!!」
幾人もが同時に動いた事で、整然としていた空間が崩れ壇上で玉座の背後で控えていた右丞相の檄が飛んだ。
多少の牽制にはなったが、ふと右丞相も違和感に気づく。微かだが、足元が揺れている感覚と上を見上げれば、高々とした梁からパラパラと埃が落ちてくる。
右丞相は神農を挟んで対岸にある左丞相へと目を向ける。そちらもまた、何かに気づいた様に右丞相へと視線を返す。
そして――
ゴオオオォォォ!!!――
激しい轟音と共に、大きな振動で玉座の間全体が揺らいだ。
地鳴りだ。立っている事もままならず、右丞相と左丞相は膝を突く。床に面して手で支えていなければ、とても耐えられない。
右丞相の視界の中では官吏達も慌てふためくというよりも、同じく床にへばりつき難を逃れるので精一杯と言ったところだった。
その中で一人、涼しい顔で平然と事を見届けている男がいた。
「陛下!!」
右丞相、左丞相それぞれが、炎帝へと声をかける。正直に言って二人共が揺れでそれどころではない。
神農は、何か意を決して玉座にいた。右丞相の声など聞こえていないとでもいう様に、耳を傾ける事も視線を返す事もない。
自らの膝の上に置いていた手を握り、
「父上!!」
右丞相が子として父に声を張り上げると、神農は僅かだがその声に反応した。
激しく揺れが続く中、ゆっくりと右丞相へと視線を返すがその目は憂いている。
まるでこれから何が起こるかを予測でもしているかのように。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます