三十八

 洛浪は、何も出来ずに終わるのだと覚悟していた。自分も終わる。呆気なく、この命が潰えるのだと覚悟すらした。

 だが不意に寒さの中で霞みかけた視界の端が、眩しくなる。

  

 ほむらが視界を掠めた。

 剣をその手に携えたままの祝融の右手が大きく燃えている。憤怒の炎が大きく立ち昇ると、僅かだが洛浪にも体温が戻った。

 熱い、ジリジリと焼ける熱気に洛浪も意識がはっきりとする。

   

 女は不満気に祝融を捉える。その炎か、それとも祝融自身にか顔を歪めて嫌悪の眼差しで睨む。

 祝融はそんな女の嫌悪など、にべもなく確りと力の入った右手が女を狙った。が、女は何とも軽やかにふわりと身を翻す。


『粗雑な火よな。穢らわしい男を思い出させてくれる』


 甘く穏やかだった女の声が、段々と沈みゆくのが手に取れる。表情に侮蔑すら浮かべ、「ああ、嫌らしい」と慨嘆がいたんする。

 そしてその目は洛浪に移った。祝融の炎に当てられた洛浪も剣を抜いて構える。その姿に、女はさめざめと頬に手を当て嘆息をもらす。更には、これ見よがしにしくしくと啜ってみせた。

 ああ、悲しい。

 声が妙に甘く聞こえる。泣き真似にも近い行為と見るも明らかであったが、洛浪はその声だけで胸中が掻き毟られているようだった。

 剣を握るその手に迷いが生まれそうなまでに、動揺がほとばしる。その女の行動一つ、言葉一つが、洛浪の脳に直接響いて惑わすのだ。


 洛浪は前に立つ祝融を見るも、己程は影響を受けていないようにも見える。

 顔は強張ったまま、洛浪が殺されそうになった仕打ちに更なる憤怒が着々と浮き出ている。その強張った顔は女に敵意を顕にし、それを言葉にした。


「お前は、碧翠へきすいではないのか」


 たい清杏しょうあんの言葉通りであれば、目の前の女がその人物で間違いないだろう。直感的に女を神子と断定したが、そうであれば全てが理に適う。神隠しの手法だけは謎ではあるが、或いは異能であれば可能だろう。

  

 しかし、今の祝融は目の前の人物が李碧翠とは違う人物と感じている。女に問いただし、李碧翠とやらの計画が完遂してまったのかを知る必要があった。

 いや、疑義を確実なものにしたかった。 

 人の形をしているが、別のなのか。本当に、神を顕現させてしまったのか。

 祝融は李碧翠と思しき人物に剣を向ける。まだ、核心ではない。なのに、心が騒つく。


 祝融の怒りなど物ともせず、女は袖で口元を覆って淑やかに笑うだけだ。その様だけならば、ただの貴人だろうか。

 それだけなのに、体は強張るばかりだ。

 くすり、くすりと女が小さく溢す度、その手の下に隠れる口元が歪んで見える。

 優雅な仕草のまま、女は瞼を閉じた。


 そして再び女が目を見開いた時、瞳は紅玉が如く赤く染まっていた。


『我が名は、洛嬪らくひん。英明なる父神ふしん、伏犧が子なり


 神とは不可視の存在である。祝融は幼き頃よりそう教わってきた。その神と対話し、相見える事が出来るのは神子だけであるのだと。


 神前儀礼を考えたならば、叩頭こうとう(額を床に擦り付ける拝礼作法)だろう。それが、祝融の知る作法だ。だがそれはあくまで、神事の話だ。

 

 可視できる神体を目の当たりにして、脳裏に使命感にも近い感情が祝融を支配する。

 

 神血なる血が身体を沸き立たせる。

 神がもたらしたる力が訴え掛ける。

 与えられし使命が身体を支配する。

 

 祝融の思考が整然としたその時、辺りを支配していた冷気が薄れ、次第に空気が熱を帯びる。


「洛浪、下がっていろ」


 殺気立った祝融を前に、洛浪は指示通り下がるしかない。寛仁と称され、英雄と讃えられているとは到底思えぬ男の眼に、洛浪は後ずさっていた。

 女が神格を名乗ったその時から、その瞳の色が紅玉石の煌めきに変わったその時から、洛浪の中で目の前の女は、完全に女神洛嬪となっていた。

 洛浪が離れると、祝融の周りの空気の熱が増した。祝融を火が囲む。

 何が起こるか、祝融は構え神威を敵に回すと言う覚悟を宿しながら、洛嬪に向けてはっきりとした敵意を向けた。

 

 敵意を前に、祝融などこれっぽっちも気に掛けていないと、洛嬪の目は空を捉えていた。


『ああ、父君。どうか暫しお待ち下さい。この坊を置いては行けませぬ』


 うっとりと容貌の眼差しを向ける先は、虚空だ。


 ――夫君……いや父君か?伏犧神がそこにいるとでも言うのか? 

   

 洛嬪が父と呼ぶべきは、伏犧神只一人。そして、洛嬪の言葉は、神一体を復活させるための儀式に主神たる伏犧神が主導しているともとれた。

 不可視なる存在が神域を抜け出して、彷徨っているとでもいうのか。はたまた、常夜の側から此方を見ているとでもいうのか。

 そして、洛嬪は小さく頷く。

 すると、それまでの恍惚とした表情が消え、祝融を視界に入れた途端に反転する。

 

 洛嬪の眼差しは、洛浪に向けていたそれとは全く真逆だった。嫌悪、憎悪、憎き相手でも思い浮かべているかのように、侮蔑で顔を歪ませる。


 洛嬪の足元にポタリと一滴の雫が溢れた。一粒の雫は次第に水の柱となる。天井から、水が滴り落ち、更には、足下から次々に水が生まれ形作った。それは水神である洛嬪を体現するかの如く、水泡を浮かべながら表面を波うたせ宙を漂う。 

 祝融の轟々と立ち上る業火とは対照的に、洛嬪の力は静かで冷厳なる様を見せつける。


 ――水を生み出しているのか


 祝融は、驚きもしなかった。自分の力を鑑みれば、神格の存在が同じ事ができて当然だと思えたからだ。


 それだけの存在を前に、祝融は何の前触れもなく動いた。地を蹴り、真正面から剣の鋒を迷いなく洛嬪の瞳の中心にでも突き立てんと勢いづける。

 突きつけた剣は、あっさりと洛嬪によって止められた。水の表面が盾となり洛嬪を守り、それ以上貫けないのだ。ならばと、祝融は剣に炎を纏わせた。

 相性は最悪だ。だが、祝融の力もまた、神が齎したもの。

 祝融はその場で跳躍すると身体を捻り、力一杯更に自身の体重を乗せた炎の剣を振り下ろす。

 しかし、剣はまたも水の盾によって防がれた。だが、防がれる事など最初から知れていること。祝融は剣は水の盾に突き立てたまま、炎を帯びた剣がジュウウゥ――と水を蒸発させる。

 その蒸気が、また新たな熱気を生み出す。

 祝融は遠慮などしなかった。女神洛嬪という存在を前にして、畏れが消えたその瞬間。殺意で満たされた、その時。

 渾身の力を込めた炎の剣を水の盾に向かって奮い続けた。

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