三十二
――抑えろ!!
軒轅は力が入り、今にも完全な龍の姿へと変わろうとする自分を抑える事に必死だった。鋭く伸びゆく右手の爪を左腕に食い込ませ、牙を剥き出しながらも歯を食いしばらせて辛うじて自我を保つ。
もし、今ここで龍に転じたとなれば、目の前の女の喉に喰らいつくだろう。
そしてその後、壁に整然と並んだ者達も、恐らく雲景も見境無く同じ牙を向けるだろう。
暴虐の限りを尽くし、本能剥き出しに暴れ狂う龍を止める手立ては無い。
乱れる髪にも衣服も気に留めず、軒轅はただただ、喉のすぐそこまで出かかった欲望にも近い本能を必死で抑え続けた。
「ああ、もう。やめてくれる?後少しで完成するんだからさ」
不貞腐れている様な口振りは、ほらほら頑張ってと寧ろ軒轅を煽る言葉を投げかける。
腹の底が煮え繰り返りそうになる度に、軒轅は左手により爪を食い込ませ、さらにはそれで飽き足りないと、自らの左腕に齧り付いた。
肉を食い千切る事など、造作も無い牙が腕に食い込むと、腕が熱くなった。ボタボタと流れ出る鮮血の赤と、匂いと、口の中に流れ込む鉄臭い味が、軒轅の顔も歪めもしたが、痛みに集中すれば何とか意識を保てていた。
「腕が使い物にならなくなるよ?」
ふふ、と嘲笑いながら女は壺を床に置くと、ゆっくりと軒轅に近づき始めた。
止めろ、今は来てくれるな。
軒轅は更に腕に牙を食い込ませる。
血生臭い、肉の匂いまで鼻につく。
女から意識を逸らし、痛いのか、熱いのかも判らなくなった腕へと思考を集める。だが、完全に女の動作から気を逸らす事もならない。
もし、軒轅の予想が正しければ、女は――
「もう少しなんだよね」
パチリ――と耳慣れた音が狂気の渦中にいる軒轅にも届いた。
――矢張り……
女が地を蹴る。その勢いは、素人では無い。軒轅は僅かに取り戻した思考に、一瞬で神経を研ぎ澄ませると、女の右手が触れるよりも早く後ろに跳ぶ。
軒轅の腹を掠めるその手は、バチバチと大きな音に変わった。眩しく閃光を放ち、明らかに軒轅の予想が的中したそれだった。
「……お前も……神血を持つ者か……」
「そ。ねえ、楽になれるよ。私も食べられたくないし、そっちも人の肉の味なんて知りたく無いでしょ?」
女の右手が再びパチパチと閃光に染まる。再び女が近づき始めた。
女の言う通り、軒轅の意識は狂気と平静の境目で揺らいでいる。だからと言って、女の言う通りの手を喰らう訳にもいかない。
――どうするかな……
痛みのお陰か、多少は真っ当な思考が戻ってきているが、少しでも集中を切らせばまた元に戻る。
それだけ、龍の本能が女を殺せと訴えかけるのだ。
一体、自分はどうしてしまったのか。軒轅は、女を視界に捉えたまま後ずさる。
しかし、足に何かが触れた。恐らく、転がっている誰かの足だろう。そうなると、壁が近い事を意味する。もう後は無い。
軒轅は身を低くして構え、ぶつぶつと小さく
精神が安定していない今、威力としては相手を一瞬止められる程度だろう。だが、一瞬の隙さえあれば、今の軒轅の状態でも反撃の機会ができる。
軒轅の様を見てか、女の薄ら笑いは続いている。が、あと二、三歩で軒轅と相見えると思ったその時、女がピタリと止まった。
ちらりと背後を振り返り、かと思えば女は軒轅から離れた。
「どうやら、時間が迫ってきた様だ」
女は何事も無かったかの様に壷を手にとると、壷を愛し子の様に撫で、あやす。
「待て!!」
軒轅は女を逃すまいと動きたかったが、僅かに動くとまた狂気の意識に引き戻されそうだった。
「大人しくしていろ、贄を喰ってくれるなよ」
そう言って、女の足下が蠢いた。影が妖魔が生まれ来る沼の如く蠢き女を包み込む。
軒轅が唖然としている間に、女は影に飲み込まれ、抱えていた壷ごと消えていた。
「クソッ」
追いかけようも無い。何処に行ったのか、今自分が何処にいるのかも検討がつかない。
気が抜けたのか、軒轅はその場で座り込む。緊張が解け、本能が静まりかけているのか、腕の痛みが増している気がした。
熱が籠り、傷口が腫れ上がりジクジクとした痛みが襲う。骨には達していないが、まあまあ痛い。
お陰で頭は冴えたのだから、良かったではないかと楽観的には言えない程。軒轅は漏れる嘆息を堪えつつ、行動に移す為重たい頭を上げた。
正直な所、気が抜けた事で身体と頭の重たさが蘇っていた。
気鬱に追いやられている場合では無いのだ。ここに居る虚な者達もそうだが、今自分がこう言う状態という事は主人も危険に晒されている可能性もあると言う事だ。
人為的だが、神意も絡む。幾ら天に望まれた方とて何があるか分からないと思慮するべきである。そう思うと気合が入って右腕に力を入れて座り込んでしまった身体を起こす。
雲景も起こさなければ、贄と言われた者達を置いていくのは少々危ういが、動けない者達を連れ立つ手段も無いのだ。
軒轅は座り込んだまま背後を振り返る。
だが、そこに雲景の姿は無かった。
確かに自身の隣で彼は魘されていたはずなのに。
軒轅は空虚に空いたその場所を、ただ見つめる事しか出来なかった。
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