二十八
闇が蠢く。
獣が息を潜め此方の様子を伺う様に、ゆっくりと
闇全体が一つの生き物の如く。またそれぞれが部分部分で意志を持っている複数の個体にも思わせるが、あくまでも気配は感覚的に読み取っているだけで、一個体なのか、複数個体なのか、はたまた其々の意識を共有した集合体なのか。
そんな事を思考しながら、祝融はうねる暗闇を前に剣を抜いた。洛浪は勿論の事、同じく気配を察知していた彩華も背に携えている矛を抜く。
狭い通路の中、ズルズルと何かを引き摺る音、ボコボコと水音にも似た沼から何か生まれ出でる様な覚えのある気配。
夥しい数の業魔としか思えない気配が増える中、清杏は変わらず背を向けたまま微動だにしない。
まるで、こうなる事を予測でもしていたかの様に。
「
気概の籠った祝融の声色に、動揺も見せなかった清杏が振り返った。その目は、どんよりと暗闇の底と同じ光も届かぬ濁った色を見せる。じいっと祝融達を見つめ、物言わぬ目は静かに閉じる。恐怖も後悔も無いと言わんばかりに、清杏は物怖じすらしない。
そして、蠢く闇が大波の如く天井すれすれまで高く掲げたと同時に、戴清杏は虚無の中へと飲み込まれていた。
祝融に手を伸ばす間など無かった。彼女は、覚悟を決めて、自らも罠に掛かる算段で祝融達を此処に誘き寄せる役目を負ったのだろう。逃げる素振りも無く、その闇に身を沈めたのだ。
「祝融様!!」
清杏を飲み込んだ闇を蠢くもの達が、ひと1人の旨味を知ったのか、気配が泥沼にも似たベトベトとした纏わりつく殺意に変わった瞬間、それは動いた。
一斉に流動する液状の闇のまま、祝融達に向かう。
狭い廊下、破壊出来ぬであろう分厚い壁。下手に祝融は炎を使えぬ状況を作られ、その泥沼を剣で防ぐしか手立ては無かった。
だが、液状を切ったところで元に戻る。
切り離した先から、ボタリ――と音を立て床に落ちるが、また這いつくばって本体に戻りゆく。それに、祝融達は三人背を合わせる事で四方からの攻撃を塞ぎ続けた。
しかし、そんな事を無限に続けてはいられない。
祝融は流し目で背後を見た。
炎で全てを蹴散らすとなれば、それだけの熱量を二人にも浴びせる事になる。しかも狭い石造の壁の所為で熱が逃げる場も無い。しかも相手がどれだけの威力で燃え尽きるのかも預かり知れないのだ。
幾ら不死、幾ら龍であるとは言え、負担が大き過ぎる。
そんな祝融の手の内を見越して場所を選んだとあれば、敵を誉めなければならないだろう。
見事な大穴に嵌ってしまったわけなのだから。
「祝融様、私が一時的に
祝融の迷いに気づいた洛浪が、泥沼に斬りかかりながらも声を上げた。
「彩華女士は、出来る限り私の傍に。これでも一応水神の加護がある名なのですよ。効果の程を試すのは初めてですが」
そう言って、珍しく微笑んで見せる。状況に余裕があるのだと取り繕う様に。
名前に加護など、嘘だ。あくまで、名前には願いが込められるだけで、迷信にも等しい。
嘘だから、笑っているのかと祝融は洛浪に問いただそうとはしなかった。どの道、囲まれた状態の今、他に手立ても無いのも事実。懇々と相手を続ければ、いつ足下を掬われてもおかしくは無いだろう。そして、敵が祝融を足止めした意味も考慮するとなると、早々に脱出せねばならない。
洛浪の意見に同意しているのか、彩華も祝融に視線を送る。
強い意志。時々、自らが女である事を忘れているとすら思えるほどに、猛々しさを見せつける彼女らしい眼差しに、祝融は頷く。
「洛浪!出来る限り小さい範囲で彩華と己を護る結界を作れ!!」
「御意」
祝融の右手に力が籠る。
祝融の炎は、祝福された神の力だ。
その力は絶大で、陰の存在を滅ぼす事に長けている。
神の御力は、陰なる存在を討ち滅ぼすためだけに賜りし恩寵。その実、それは陽の存在すら傷つけてしまう。
特に祝融の力は、盾としての役割は己だけだ。その盾は、味方にとっては、その役割を果たさないどころか、下手をすれば火傷で済まない。
近ければ、尚の事。
護るべき存在すら――
祝融の右手に高々と燃え上がる炎が顕れた。
眩しく暗闇を照らし、蠢くもの達も慄いてずるずると後退る。
その熱量は凄まじく、恐ろしい。
洛浪も、彩華も終始見届けたかったが、瞼を開けていると、目玉が破裂しそうな程に熱と光が突き刺さる痛みを堪えるので精一杯だった。
そんな中でも、洛浪は蠢くもの達に向けて封印術を行使する。それは一瞬で陰達を駆け抜け、その巨体を晒した。
痛みで精神が安定しない今、結界は長くは保たない。洛浪は役目を終えると轟々と燃え盛る炎を前に、力無く膝をついた。彩華を引き寄せ覆い被さると、祝融の命令通りに結界を張った。
ほんの些細な閃光が祝融の視界の端にも映ったか、辺りを覆ってい暗闇めがけて一斉に炎が舞う。
龍が空を飛び交うが如く、闇を蹴散らさん。
その圧巻の祝炎を前に、蠢くもの達は一瞬にして焼き割かれた。
声は無い。
だが、絶叫でも奏でていそうな程に、炎の中で暴れ回った。逃げようと踠いても、出口は塞がり、目の前には壁がある。
それらに思考があるかは知れないが、きっと恐ろしいものに出会ったと後悔した事だろう。
その力に神の威光すら感じながら。
暗闇に蠢くもの達は、抵抗を続けたが、ほんの一服でもこさえようとも出来ない時間の内に焼き消えてしまった。
その焼け跡に清杏の姿は無く、闇に飲まれたのか、祝炎により黄泉へと旅立ったかは、祝融の知るところには無い。
彼女の悲しみが真実だったのか、最早祝融にはどうでも良かった。そんな事よりも、自らの炎の内にいた二人の方が余程大事だったからだ。
彼女の娘の身も案じねばならないが、祝融は聖人では無い。正義心を振りかざす事が出来るのは、彼を支える者があってこそと言えるだろう。
二人が自らの力で傷ついた、その真実が、祝融を善人である事を一時辞めさせてしまっていた。
「無事か!!」
蠢くものの気配が消え、辺りは再び静寂と暗闇に戻る。
只の暗闇がこうも安心できるとは、中々に実感出来ないものでも無いだろう。
蹲り動かない二人を前に、祝融の中でドス黒い感情が広がる。
その心中が黒い渦に呑まれてしまう程に、その心の臓を貫かれているのかと感じる程に、祝融は二人に触れる事すら恐ろしくなった。
――もし、二人が、
そんな思考がよぎった時、「うっ」とくぐもった声を上げながら彩華がよろりと身を捩った。続いて、彩華が身動ぎした事で気がついた洛浪も小さく肩が揺れ、頭が動いた。
そのほんの些細な動きだけで、祝融はこれ以上ない程に安堵した事だろう。目に入った瞬間には息つく間もなく、祝融は二人に駆け寄っていた。
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