九
「風無壊って……知ってるも何も、風家初代当主の名前じゃねぇか」
静瑛は、瑤姫の言葉をそのまま鸚史に問い掛けた。風家の人間ならば、容易に答えが出ると考えての事だったが、思った以上に古めかしい名前で驚いたのは鸚史の方だった。
「お前から、その名前が出るとは思ってなかったな」
風家でも滅多に口にする奴はいない名前なんだ、と鸚史は口に酒を運んでいた。
今日は灯りは必要としない程に月明かりが照らすその部屋で、鸚史は持ち込んだ酒器を杯も無しにそのまま口をつけ傾けている。丞相府で本来ならば咎められる行為だが、左丞相の子息相手にそれを出来るものは少ないだろう。
静瑛は鸚史の姿に呆れた目を向けたが、その目線に気づいた鸚史は何の気なしに「飲むか?」と聞いていた。
「いや、今日はいい。それより……」
「風無壊だろ?詳しくは知らん」
時期当主ともあろう男が、初代当主を詳しく知らないと清々しい程に言い切った。酔っ払っているのかとも勘違いしそうな発言だったが、鸚史はまだ序の口だと更に酒を煽る姿は、まだ余裕に見える。
「俺が知ってるのは、そいつが眷属だったって事ぐらいだな」
「それだけか?」
「ぱっとしない男だったか、表立って記録を残していないか……だ。家で調べりゃ何かは出るな」
鸚史はニヤリと笑う。その意味は容易に想像できた。風家邸で何かを探す……それをゾッとするほどに膨大な資料を漁る事になると思うと、静瑛は声が喉を通らなかった。
「……本当にやるのか?」
「おいおい、皇都に居るんだ。裏で動く俺の苦労を知る良い機会だ」
ニヤニヤ笑う男は確かに何かある度に率先して人を動かし探りを入れる。確かに苦労はかけているだろう。それを思うと静瑛は嫌とは言えなかった。
「何か見つかると良いんだがな」
「神子が残した言葉だ、意味はある」
静瑛は、儚気な叔母の姿が記憶に浮かぶ。
彼女の本意は何だろうか。まるで導かれる様に、次から次へと渡り歩いている気分に、静瑛は矢張り一口くれ、と鸚史の酒器に手を向けた。
――
――
――
それから、そう何日も経たない内に、静瑛は風家邸を訪れていた。相変わらずの桜の木で埋め尽くされた庭園も、秋とあって黄色に染まっている。
もう暫くしたら、葉は全て落ちて、冬がやってくるだろう。そんな物悲しさを覚える桜並木を通り抜け、現れた風家邸の中へと静瑛は足を向けた。
家令に案内されるままに風家邸の中を歩いていくと、客間ではない風家邸の奥へ奥へと導かれる。
「……鸚史は此方にいるのか?」
「此方は本来なら風家当主しか入れない資料庫なのですが、当主様には許可は頂いております。何分、手入れが行き届いておりませんが、御容赦下さい」
地下とすら思えるほどに暗いそこに窓はなく、埃の匂いが充満している。更には奥に進めば進むほどに、黴臭さが鼻についた。
「此処でございます」
そう言った家令は、扉の向こうに声を掛けると、「入ってくれ」とだけ返事がするなり静瑛を促した。「私には権限がありませんので」とだけ言って、下がっていった。
古めかしい、そこは、矢張り地下なのだろう。冷んやりとした空気と湿気が鬱陶しく、黴臭さがを助長させている様だった。
静瑛は思い切って扉を開けると、中はそれ程広くは無いが、お世辞にも品の良い部屋とは言えないほどに薄気味悪さを放っている。
どんよりとした空気は、地下という事だけが原因では無いのだろうが、思わず紙から発せられているのか、独特な黴臭さに静瑛は袖で鼻を覆い、顔を歪ませていた。
「よう、来たな」
その片隅の机を一つ占拠した男は、行燈の灯りの下で静瑛の顔を見向きもせずに、書籍に目を通していた。
「私に苦労を知らしめるのでは無かったのか?」
「残念ながら、その必要が無くなった」
「風無壊の資料は無いのか?」
「ある。父上がご丁寧に場所まで教えてくれた」
ゆっくりと鸚史が占拠する机に近づいていた静瑛は、鸚史が手を子招く様子に、机の上を覗き込んだ。
古めかしい名前にお似合いの、古めかしい資料。今にも、崩れ落ちそうで、鸚史もできる限り丁寧に扱えと忠告する程。
「……お前は、最初から西王母か神子瑤姫に弄ばれてるのかもな」
それまで、資料を読み込んでいた鸚史は、資料の一箇所を指差した。
そこには、風無壊の名は記されていなかった。代わりに――
「……太昊?」
太昊は、炎帝よりも前の代の皇帝とされる。経典も彼が記したものと云われているが、存在したかどうかも不確かだった。
太昊という名前以外に、何も残っていないとされていたのだ。
風家も末裔とされるが、どういった繋がるがあるのかも不明とされ、伝承のみが残されているという実しやかな人物だった、、、今の今までは。
「父上に風無壊について知りたいと言ったら、此処に案内され、この資料を手渡された」
書籍とは言えない、巻物状のそれは黄色と化した傷んだ紙に遺された記録。それは風無壊の子息、二代目当主、風
風無壊が即位した話や、その式典の光景が事細かく記されている。そして、家系図にも似たものも記され、そこには太昊と皇后である人物の間には、明洸とは別の人物の名前も記されていたる。更に、明洸には後の三代目に続く名前が記録されていたが、もう一人
「……風無壊には子供が二人。確かに、明洸は二代目当主で間違いねぇ」
「風家は何故この事実を隠す。太昊と血縁である事自体は周知の事実だ」
「太昊は神農に皇位を禅譲した。その理由は定かになっていないが今の姜家と風家の関係を考えても、風家は身を引いたって程大袈裟な事も無かったんだろうよ」
「何故だ。子も、孫もいた」
「別に世襲が全てじゃねぇだろうよ。それに、神農を見ろ。太昊は、神農が千年を超えて生きる存在だと見抜いていたんじゃねぇのか?」
静瑛は押し黙った。神農は確かに異質だが、それは他の六仙にも言える事だ。何故、神農を選んだのだろうか。
「……叔母上は、何故、風無壊を調べろと言ったのだろうか」
「太昊……これが、答えなんじゃねぇの?」
鸚史はこれ見よがしに、太昊の名前の上で指でコツコツと鳴らして見せる。
「太昊が、この世に顕現した神だったと?」
「……いや、言ってて俺もちょっと訳わかんなくなってきた」
太昊は、風家の始祖でもあると今知り得たばかりであるというのに、鸚史も自嘲気味に笑っている。まあ、自身の始祖がこの世に実体化した神など、笑わずにはいられなかったのだろう。
「だが、西王母の言葉の意味を辿った結果ではあるが、彼女も又、六仙だ」
「じゃあ、何だ。六仙は、太昊と契りを交わして眷属になったって事か?」
「弄ばれた結果でなければ、そういう事じゃないのか?」
鸚史は椅子にもたれ掛かると頭の後ろに腕を回して、椅子の前足を浮かせていた。現実的で無い目の前の古い資料が、全てを史実だと物語っている。
「答えが太昊……この意味は何だ?」
「神が顕現した事実を知らせたかったにしては些か遠回りだな。もしくは……」
「今、燼を使って顕現しようとしている存在が、太昊って事か?」
「……そこからはまた憶測だな」
二人は目を合わせるも、はあと盛大にため息が出る。そう、西王母の言葉遊びに付き合わされているのかもしれないと思いつつも、此処まで追ってきた事象だったのだが……
「結局何も変わらないのかよ」
そもそも、最初から西王母に弄ばれているかもしれないと考えていたのだから、そこにはっきりとした答えがなくとも何も問題はない。問題は何のだが、かかった時間が無駄にすら思えるのだから、虚無感ばかりが募るのだ。
静瑛は、天井に目を向け既にやる気を無くしかけた鸚史をよそに、巻物を開いては辿っていく。
僅かだが、確かに太昊の背後には六仙らしき存在が記されている。
『偉大なる力を宿した六名の者達が、太昊を前に跪き、首を垂れる。その姿だけで、太昊の偉大さを後世に伝え得るだろう。神が如し威光を前に、英雄と称される存在も霞む…………だが父は偉大だが、その存在は虚だ。白仙山のその向こうを見つめては、誰も知り得ぬ先を見据えているとでも言うのだろうか――』
静瑛は、そこでピタリと止まった。
「……鸚史、風家が信奉している神は……男神
鸚史は思わず、そのまま背後に倒れそうになった。確かにそうだがっ、と慌てて傾けていた椅子を戻すと静瑛を見上げていた。
「……おいおいおい……それは憶測が過ぎるってもんだろ」
「ああ、憶測だ。だが、男神伏犧が民を導きこの国の基盤と封印を創ったとされ、一番、憶測の中では存在感がある。それに西王母と神子瑤姫、そして風家。それに関わる存在を照らし合わせた時に現れるのは、その神だ」
「俺はいつまで憶測で話をせねばならん」
「さあな。神子が真実を語る迄か、目的を達せするその時迄……だろうか」
静瑛の淡々とした言葉に、鸚史は声を荒げて「おい」と強く静瑛を睨んだ。
「お前、
「……どう見える」
鸚史の睨みに静瑛は物ともしない。が、静瑛は小さく息を吐くと冗談だ、と小さく溢した。
「大丈夫だ。ただ、これ以上調べる事には意味は無いかもな」
「男神と分かったからって、対処は出来ないと?まあ、神子瑤姫が一層怪しく見えるだけだな」
神子の言葉で、静瑛にもう一人の見知った神子の存在が頭に浮かんだ。彼には、そこまで見えているのだろうか。
「……燼はどうなんだろうな」
「あ、知らねぇな。会ってねえし」
「私もだ。何やら陛下と会合を繰り返しているという噂だけが広まっているが……」
「それは俺も聞いたが、あの燼が悪巧みをするってのも考えつかねぇな」
「確かにな」
鸚史は立ち上がると、資料を丁寧に仕舞い始めた。
今日はこれくらいで良いだとうと、見切りをつけたのだ。
「また、あの資料は調べてみる。端から端まで読んだわけじゃねえしな」
「ああ、頼む」
二人は片付けを終えると、上階に向かって歩き始めた。慣れはしたが、黴臭いその場から逃げ出せると思うと、少しばかり早足にもなる。
「そう言えば、もう一つの噂の件だが」
鸚史は気のない返事に、忘れていたと返す。
「既に道托が申し入れをしていたらしいが、神殿の返答は芳しく無かった様だ。叔母上も助ける事は出来ないと」
「……妙な言い回しだな」
「そうか?」
「手は貸せないじゃねぇんだな、と思ってな」
些細な差異だった。それが鸚史には違和感として残ったのだが、最初から諦めているとも取れるのだ。
「助ける手立てが無い……か?」
「そう聞こえねぇか?」
静瑛は、同情もない強い瞳を思い出す。既に、諦めているのだとしたら……
「燼も気付いている筈だよな……神子達はこの件に気が付いていて、神子瑤姫に関しては、男神が関係していると断定づけした。だからこそ、お前に風無壊の名を伝えた……そうは考えられねぇか?」
「……そう決まったとして、手段は何も無い……か?」
二人は足を止め向かい合った。
「なあ、この件、本当に俺たちだけが行き着いた答えだと思うか?」
「……そうは、思えないな」
答えを自ら出せたとは言えない状況だった。
西王母、瑤姫、そして左丞相が、その答えの直ぐ傍に立っていたのだ。
「次は、
二人が浮かんだ人物は、同じだった。
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