番外編 英雄の始まり 弍

 学びの場として用意された其処は、がらんとしていた。整然と机が並べられただけで、誰一人として残ってはおらず、祝融の教材も片付けられている。

 本当は、急がねばならないが、学友達の反応も見てみたかったのだ。だが、誰かが帰してしまったのか、祝融は只机を眺めるだけとなってしまい、思わず「ふう」と不安の息が漏れた。

 

「殿下」


 祝融は聞こえた声に驚き、肩が跳ねた。誰もいないと思っていたのに、背後から声がするものだから、慌てて振り返る。

 聞き慣れた声は、いつも無表情の学友の一人だった。赤髪で、ある意味で一番目立つその男は、いつも後ろの方で歩いている事が多い。他の学友と違い親しげとは言えず、いつも無表情、無口で背後にいる。

 目立たず物静かだが、唯一祝融と同程度の学力を有している一人でもあった。

 そして、その一人は、廊下の一角から歩いて来るが、無表情を貫いているが、表情には少々影がちらついている。

 

「雲景、帰ったのかと」


 驚きを何とか隠さねば。祝融は、いつも通りの朗らかな表情を無理に作ろうと必死だった。それを知ってか知らずか、雲景は祝融との距離を縮めていた。小柄ではないが、どうやっても同世代に比べて祝融が成長過多である為に、小さく見える相手に祝融目線を落とした。

 

「……私が殿下の共をする事が決まりました」


 変わらず無表情を貫く男は、その言葉と同時に俯いた。決まったと言う事は、雲景の意思は一切伴っていない。

 祝融も、雲景の出自に関しては耳にしたことがあった。雲景の祖母である、朱霍雨が祝融の従者にと丹で暮らす娘の子の一人を引き取ったのだと。

 

「……雲景、嫌ならな嫌と言え」


 雲景は何も答えなかった。もし、雲景が立場を優先していたなら、嘘でも「いいえ」とでも答えただろう。だが、何も言葉は返ってこない。それが、唯一の彼の反抗にも見えた。

 出来る抵抗は少ない。祝融は、姜家であり皇族の一員だが、雲景は朱家と言う姜家に対して絶対の服従を誓っている一族。しかも、その分家で、当主の姉と言う立場の祖母に逆らう術も無いのだ。

 だから、祝融に出来る事は雲景が拒否したと悟られずに霍雨に別の人材を手配してもらう事だった。


「俺から、霍雨に言う。誰か、他に紹介してくれと……無理はしなくて良い」


 誰だって怖いだろう。皇軍の一個隊が全滅したのだ。将軍すら勝てなかった相手に、僅か十四の子供が代理として向かわされる。そこに行くだけで込み上げる恐怖を更に増長させる要因を背に乗せ飛んでいくなど、死にに行く様なものにしか思えないだろう。

 時間は無い。行き先は藍と遠く、出来る限り早く向かわねばならない。祝融が元来た道を戻り、一度宮へと戻ろうとした矢先だった。


「祝融殿下は、怖くは無いのですか?」


 祝融は、足を止め振り返った。そこには、無表情を忘れ、十三歳の少年が俯き、怯えから恐怖の色に染まっていた。


「祝融様だって、嫌だと言えば良かったでは無いですか。まだ、成人でも武官でも無い。訓練を受けただけの者を死地へと赴かせるなど、間違っていると。貴方は何故、反論しなかったのですか」


 妥当な意見だ。

 現に、祝融の異母兄が神農に進言したのも雲景と同意見だからだろう。異母兄は、皇帝陛下という存在への無礼も不躾も、全てを忘れ純粋に祝融を心配して反論したのだ。

 道托の憂慮は嬉しかったが、計らずも祝融の不安を煽っていた。それだけの事であり、異常だと。

 祝融は一瞬目を逸らすも、より真剣な目を雲景に向けた。


「不思議と、怖くはないんだ。俺の力がいつか何かの役に立つのだとは考えていたから」


 祝融は自身の右手を見つめた。ぼうっと音を立てて、その右手に火が燃ゆる。赤と橙が混じり合い、ゆらゆらと揺れては暖かく辺りを照らしていた。


「責は重いし、陛下の期待は裏切れない。だけど、危険な事には変わりないんだ。何も、雲景がその責を背負う必要は無いし、無理はしなくて良い」


 そう言った祝融の手から火が消えると、表情は朗らかな顔へと変わっていた。それは、後ろにばかりいる雲景を気に掛ける顔と何も変わらない、いつも通りの姿。

 決して、雲景に負担は掛けず、自身の不安を押し隠そうとする姿が、雲景の目にはっきりと映っていた。   


「雲景、すまないが、霍雨が何処にいるか知っているか?父上と揉めたばかりで、出来れば霍雨に直接朱家の誰かを借り受ける事を申し出たいのだが……」


 祝融が、二つ返事で皇帝の命令を受けてしまったものだから、右丞相も慌てていた。行く必要は無い。何とかすると言った父親を、祝融は大丈夫たと押し切ったのだ。だから、本来なら父親を通じて霍雨へと申し出る所を、直接伝えるしか無かった。 

  

「そう言うと、きっと祖母が行くと言うと思います」


 雲景の言葉に祝融は一瞬、うっ、と声を漏らし嫌そうな表情が垣間見れた。

 現在は、神子瑤姫の護衛官だが霍雨は元武官で校尉を経験した身だ。適材を探すよりも、自分が行くと言った方が早いとでも言いそうではあった。

 霍雨は真面目一徹とでも言えば良いのか。元武官とあって、冗談も通じない相手とあって、祝融は苦手としていた。

 だが、それも仕方ない……と、祝融が背筋を伸ばした時だった。


「ですから、私が行きます」


 その返答は予測していなかったと、祝融は少々間抜けにも、呆気に取られていた。

  

「だから、無理はするなと」

「……怖いのは、確かです。でも、私も祝融様の御力になりたいと、今、初めて思いました」


 今。と言う言葉が、強調された様にも聞こえる。

 

「正直過ぎるな」


 祝融は思わず吹き出して笑っていた。緊張が全部吹き飛ぶくらいに、笑った。

 一頻り笑った祝融は、すっきりとしたものだった。業魔の元へ向かうのは怖くは無い。でも、重圧は、ズシリと祝融にのし掛かる。

 天命を下された、と言う重圧が。

 其処へ向かう事が、天命の一端だとすれば、これから何が起こるかも想像がつかないという、不安が祝融の精神を掻きむしっていたのだ。

 だが其処へ、向かうのが一人でないと思うと、少しばかり心強い。

 雲景は恐怖が消えたわけではなく、だが無理をしていると言う程でも無い。

 ある意味、いつも通りの無表情が祝融をじっと見ている。

 

「では、雲景、共に行ってくれるか?」


 祝融の信頼が篭った言葉。雲景は表情は硬くも一言、


「御意」


 と答えたのだった。


 ――

 ――

 ――


 藍省 田園地帯 


 藍省の田園が並ぶ青々とした一帯が広がる其処は、正に死地だった。

 目の端には半壊した村々が映り、そこから田園に大きな何かが通ったように稲が薙ぎ倒され、田が潰され、穏やかとは無縁の景色だった。その景色を黒い沼とでも呼べば良いのか、黒いどろどろとした薄気味悪いものが田園を黒色こくしょくに染め上げている。

 その黒い沼の中心で、大型の何か……祝融が未だ、その目で見た事の無い黒い巨体が静かに佇んでいた。パチパチと見えるか見えないかの閃光が黒い巨体に纏わり付き、それが封印術である事は確かだった。

 祝融も封印術には覚えがあった。兄達から学んだ術。祝融は自分の血の力の使い方を教わり、それとなく使える。姜家として生まれたのならば、必要になる時が来ると、幾度となく手解きを受けていた。時々一緒に使い方を訓練する利閣は上手く使えないのだと、愚痴を溢し、いつもは穏やかな三男も、その時だけは何事も卒なくこなす祝融を恨めし気に見つめる。

  

 その力を使える者は、限られる。六仙の末裔……と言っても、表立って残っているのは神農の一族の姜家、西王母の一族のこう家、東王父のかい家、太昊の末裔とされる風家、そして、はるか昔の神の血を残す黄家だけだ。他にもいるが、目立って行動しなかったり、その血を受け継いでいるとされても、必要な呪いが伝わっていなかったりとで、使えないも同然の者達ばかりなのだ。

 呪いの言葉は、それぞれの一族で違う。神の力を許された証拠であるそれは、力を使う為の鍵だ。他の一族が、その言葉を使った所で、一切意味が無いのだと言う。

 

 祝融は、もう一度封印術を使う者を見た。黒い沼に剣を突き立て、その前に座り込み力を送り続けているその者は、金色の髪色から黄家だと一目で分かる。

 その金色の髪の武官は、遠目でも汗が滲み出て疲れが浮んぼりになっていた。それもその筈、彼は、殆ど眠ってすらいない筈だ。伝達を送り、皇帝が寄越した相手が皇孫とはいえ、武官でもない子供だと知ったらどう思うのだろうか。

 他に、助けが無いと知れたならどう思うのだろうか。

  

 ―あぁ、くそっ!


 祝融は、不安でどうにかなりそうで、思わず口汚い言葉が浮かんでは自分を罵っていた。

 恐怖は無い。だが、本当に勝てるかは分からなかった。

 まあ当然だろう。祝融が手合わせをした事があるのは、兄か、学友か、訓練の時に相手をしてくれる武官ぐらいなのだ。

 いくら、異能を授かったと言うだけで、勝てる相手なのだろうか。

 神が、どれ程偉大なのかも、分からないと言うのに、神農はその力を確信している。  

 状況を考えても、祝融は自身の異能を信じるしか無かった。


「祝融様、大丈夫ですか?」


 龍の背に乗ると、雲景から祝融の顔は見えない。だが、辿り着いても何も言わない事は不審だったのだろう。その声からは、雲景も不安と緊張が伝わる。


「(そうだ、雲景は一緒に来てくれたじゃないか)」


 きっかけは命令でも、雲景の意志だ。

 応えなければ。その思いが、祝融の背を押した。


「……雲景、降りてくれ。黄家の将軍と話を」


 祝融は不安から絞り出した声で、雲景へ向けて決意を返していた。

 雲景もまた、不安は残ったままだ。ゆっくりと業魔へと近づく毎に大きくなる不安を胸に、雲景は地表へと降りて行った。

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