三十一

 雲省 省都アコウ 明月城


 空が白み朝焼けも近くなった頃、長い一日が終わった。

 辿り着いた明月城で、事前に連絡を受けていた者達は現れたのなら顔触れに首を傾げていた。

 いる筈の人物がおらず、代わりに違う人物がいる。しかも、居ない人物の従卒だけはいる上に怪我を負っている。明らかに何かあったのだ。

 軒轅と浪壽が事の次第を出迎えの代表としてそこにいた雲諸侯に説明をすると、諸侯は神子と祝融の存在も忘れて、大慌てで自らの執務室へと飛んでいってしまった。

 客間に余裕は有り、新たな面々の分の部屋が直様に用意されると、其々の部屋へと案内された。

 

 祝融に従者を気遣う余裕は残されていなかった。

 雲景達に休めとだけ告げると、逃げる様に部屋へと閉じ篭ってしまった。帯から外した剣と荷物を適当に放り、寝床へと辿り着くと、うつ伏せに倒れ込む。

 投げ出した肢体に気力は残されていない。全てを放り出し、思考も、身分も、使命も投げ出してしまいたかった。

 静寂が思考を鈍らせる。眠りたいのに、眠れない。微睡と濁った思考を行ったり来たりしている間に木戸の隙間が徐々に明るくなっていく。朝日が昇り、本当なら一日の始まりを告げる筈の光が鬱陶しい。木戸の隙間から溢れる眩しい光の筋に殺意すら芽生えそうな程。だが、それを避けようとはしない。

 何もかもが、億劫で嫌になりそうだった。

 

―使命が何だ

 

 祝融が心の奥底で神とやらに対して吐き続けていた言葉だった。誰が、使命を授けてくれと頼んだのか。誰が、力を与えろと願ったのか。何故、望んでもいないのに代償と称して全てを奪っていく。

 そうやって、虚無へと向ける焦点の中に、朝日以外の白い物が飛び込んだ。壁を通り抜け羽根を羽ばたかせ、祝融の背に留まる。

 今は何も考えたくは無い。後にしてくれ。

 そんな祝融の心情など知らない志鳥は、祝融のよく知る男の声で話し始めたのだった。


『……母上が……自害されました。出来る限り、お早くお戻り下さい』


 祝融の背にあった小さな重みが霞の様に消えていく。

 確かに、弟の声だった。夢現に見た幻だろうか。

 祝融は寝返りを打ち、仰向けになると、屈強なその腕で顔を押さえた。

 最後に会った母の言葉が頭を過ぎる。


『貴方は、来ないわ』


 その言葉通り、祝融は死に目にすら会えなかった。

 顔は暗闇で見えなかった筈なのに、母が恐ろしい形相で自身を恨んでいる様な気がしてならなかった。


 ――


「お前はこうなる事が分かっていたのか!?」


 怒りの形相の雲景に胸ぐらを掴まれ、壁に追いやられる燼。その顔は冷静で、雲景を睨み返す事もない。


「雲景様!落ち着いて下さい!」


 彩華が雲景を止めようと間に入る。しかし今は、妻で有る女すら威圧を緩めはしない。主人の憔悴した姿に、やり場の無い怒りが溢れ続けていたのだ。

 祝融が休む部屋の隣室。宿屋と違い、そう簡単には祝融部屋へと声は届かないとあって、雲景の怒りは止まる事を知らない。

 従者三人と、軒轅が集まって休まず話し合いとなったわけだが、部屋に入って早々に雲景が燼に掴み掛かってしまったのだ。

 本来なら、第三者にも近い立場の軒轅が仲裁に入りそうなものだが、軒轅もまた、燼に僅かながらの不振を抱いていた。


「燼、お前は阿孫様に関して、俺の言葉に経過観察と言ったな。結果は見えていたのか?」

「何かがきっかけで口火を切るのは分かっていました。止める手段があるなら、とうにやってる」


 阿孫が、陰に呑み込まれつつある事は分かっていた。しかし、それに対しての処置は無い。


「植え付けられた種は取り除けない」


 燼の言葉に、雲景は目を見開き燼を見た。


「その種とは何だ!」


 燼は口を閉ざした。変わらず目は物を言わず、逸らしもしない。語れない。燼を支配するが関わっている事だけは確かでも、それが言葉となって現れる事はない。


「口にしないのはお前が神子だからか?」

「言葉は意味と力を持ちます。安易に口にしない事に意味はあるのです」


―神子の言葉は神言かみごとと同義である


 神の子たる存在は、神の顕現を明示する存在であると同時に、神と同義の存在と謳っている。

 燼は、自分がそこまで尊大であるとは考えてはいないが、第三者の要因を思慮しない程の愚考は犯さない。

 言葉をどう受け取るかは、自身ではない誰かなのだ。

 真っ直ぐ見る燼の目を逸らしたのは、雲景だった。手を離し、悪かったと小さく呟く。従者というよりも、祝融の友人として何も出来ない無力感に苛まれた男は、燼に背を向けると小さく項垂れている。疲れた顔のまま、部屋に用意されている長椅子に腰掛けた。顔を抑え、その目は今後の不安が見え隠れしている。

 怒りが治まった訳ではないが、それ以上の怒りは無意味だとしか思えないのだろう。案の定、燼はその怒りがどれだけ自分に向いても、冷静だった。

 立場上、嫌疑が掛かって当然と全てを受け入れている。元々、燼は怒りを見せない。彩華ですら、その片鱗すら覚えはなく、出会ったあの日だけが、燼は怒りに包まれていたのだ。

 彩華は、そっと燼に寄って、頭を摩る。身長差から、丁度瘤が出来た辺りで、むず痒さからか、恥ずかしさからか逃げ腰になる。


「さっき確認しただろ、大丈夫だって」


 彩華の手を払い除け、自らの後頭部を摩る。いつも通りの様子がそこにある。なのに、彩華は不安が治まらなかった。


「燼、貴方には何が見えているの?」


 彩華の一言が、部屋にいた全員が反応した。

 神子は何が見えているのか。何を見通しているのか。言葉を伝える白銀の神子でないのに、燼は口を閉ざす。

 その意味は。

 彩華は燼が何も語らないと分かっても尚、遠い存在となりつつあるの手を掴もうとしている。

 そんな彩華のてから逃げる様に燼は、ゆっくりと寝台に腰掛け、息を吐く。


「……それが言えたら、楽だろうな」


 掴み所の無い答えに、彩華の不安は膨らむばかりだった。


「燼……」


 不安気な表情ばかりで、いつもの澄まし顔の女は何処へと行ってしまったのか。

 

「大丈夫……俺が、祝融様を裏切る事は絶対に無い」


 安心させる為に呟いた言葉に、深い意味は無い。

 燼は徐に立ち上がると、部屋の出口へと足を向けていた。


「何処に行く」


 雲景は、いつもの真面目顔に戻っているが、その声は不機嫌極まりない。


「友人の所です」

「こんな早くにか」

「多分、起きていらっしゃいますよ。元気ならね」


 そう言って、燼は、そのまま部屋を出て行ってしまった。

 部屋に静寂が戻る。三人の髪色が並んで、いつもならば賑やかしいのに、今日ばかりは空気が重い。

 用意された部屋が違う彩華は、沈黙が苦になって部屋を出て行ってしまおうかと考えるも、夫の項垂れる姿に踏みとどまっていた。

 それに、沈んだ雲景を部屋の隅で眺めている軒轅に押し付けるには少々可哀想でもある。

 彩華は雲景の前に立つと、ずぶずぶと沈んでいる夫を見下ろしていた。

 

「雲景様、少し散歩しませんか」


 下ばかりに目を向けている男の肩がピクリと揺れる。


「ほら立って」


 彩華は無理矢理、雲景を立たせて引きずる様に扉へと向かう。最後に、軒轅の顔を見ると、ゆっくり休んで下さいね、なんて相変わらずの緩い姿を取り戻していた。

 そうして、一人部屋にポツリと取り残された男は、同じ静寂でも陰鬱な空気が取り払われた部屋で、欠伸をかく。


「良い天気なんだけどなぁ」


 部屋を照らす日差しを一身に受け、陽気も高まる中、軒轅は落ちそうになる瞼に抵抗もせずに、ゆっくりと寝台へと身を預けたのだった。

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